日本再生(内製化による課題解決)

これまで、しん研究所が発足して約7年。考察を続けてきた本質の追求。現時点での到達した重要仮説について纏めることにした。

しん研究所が唱える内製化の狙い。

人類は、長い期間自給自足+住み分けで存続を担保してきたが、ある日侵略や略奪という行為によって存続を担保する勢力があらわれ、武力により思いを遂げる者が勝者敗者の概念を生み出し、常に勝者を目指すことによりその勢力を拡大してきた。

近代になってその勝者は経済拡大という武器を掲げ、依存症という手段を武器として他国を侵略、一方同時に自国もまた生きるに必要な根本的な生産を侵略先国家に頼るという依存症スパイラルに陥ってゆく。国家の安定的な存続にとっては不健全なのだが、最も大切にすべき価値観が経済規模の拡大に陥ってしまった現在、単純に歴史を巻き戻すことは出来ないし、よしんば出来たとしてもそれで課題は解決しない。このような現在の状況は夫々の国に住む人々にとって、又国家にとって健全な存続が保証されたものでは決してない。

実際、多くの国で(特に経済発展を遂げた途上国他過剰な海外依存に陥った国家)国家財政の破綻や、内戦、国際紛争へ巻き込まれる等、むしろ健全な存続というよりも絶望的な未来状況が多く生まれていることは確かであり、それらの課題を解決するために発足したはずの国際機関は、多くが課題の原因を作った国家によりコントロールされている。
略奪と競争、過度な国際分業という結果が招いた事態における本質的な課題は、それにより利を得るということを最重要な目標とし、手段の本質が争いからなる体制である限りは解決しない。

 

ということから、現在の世界や各国家、社会の課題を解決し、少なくとも健全な存続の可能性を高めるための考え方として、しん研究所は内製化という鍵を提唱したい。

 

内製化についての考え方

内製化とはいわば「自給自足」。近年食料について、さらに近くは資源やエネルギーについて、「自給自足」「地産地消」が叫ばれる機会が多くなった。SDGsではさらに広範な分野で持続可能性が発信されている。
地球は太陽からの光エネルギー及び一部の素粒子、電磁波、隕石は地球外から供給されているが、他の生物に必要なものはおおむね自給自足、地球を一つと考えると限りなく高度に内製化が完成されている。その地球を地域で細分化してみた場合、それぞれのピースが出来るだけ内製化率が高くあることが、地球そのものの自給自足バランスを保つものとなるのではないか。ピースの内製化の崩壊が進めばその集合体である地球もバランスを崩し、宇宙に対する依存症が嵩じてゆくことになるのではないだろうか。遠い未来に映るかもしれないが、現実にその兆候と人類の行動ははじまっている。
地球上の夫々のピース(地域や国家)が内製化を目指すことが必要と考える根拠の一つである。

 

このような考えは得てして一見「内向きな縮小」「自己中心的な排他的思考」「昔を懐かしむだけの回顧論」と評価される場合が多いかもしれないが、それは中途半端な自己中心的な内製化に留まった場合であり、究極的な内製化の推進は決してそうではない。

むしろ、地球全体の高度な調和を担保するものであり、今日的な諸課題を未来、長期的な観点で解決しうる有力な挑戦の一つである。すなわち、内製化とは調和であり、調和とは自然界で最もバランスの取れた安定状態なのである。

一方、今日求めている無秩序な経済拡大は、むしろ調和を破壊し、不安定と際限のない競争(競い合い、争い合い)を生み出すことによって実現しようとしている世界なのである。

考察する課題項目

・衣食住資源の自給

・資源、エネルギーの自給

・テクノロジー、人財自給

・安全保障と内製化

・内製化と外交、貿易

・内製化を援護する政治、社会体制

衣食住資源の自給

 衣食住に関係する資源やエネルギーの自給追求は基本的に各国の固有の権利と言ってよい。どの国にも、「自給はけしからん」と他国に迫る権限を有してはいない。しかし、実際には貿易赤字を理由に貿易不均衡を正せとの圧力がかかる。その圧力は得てして大国や戦勝国が自国の一次産業保護のために行うものであり弱い立場の国家はその圧力に抗できず、多くの国が食糧、資源、エネルギーの自給権限を放棄してきたことは事実だ。日本もその一つと言えるだろう。

もちろんテクノロジーが発達する以前では、自給の可能性に気づかず、気づいても活用が不可能な状況であり致し方なく従わざるを得なかったことは事実だが、今や時代が変わり、当時不可能と言えたこと、無用の長物と言われたようなもの、未知のものが貴重な食糧、資源、エネルギーに変わりうるべくテクノロジーは急速に進歩している。

 

食糧に関しては、

農業

表面的には、日本の農業の大規模化が遅れ価格競争力が無くなってきたそれが農業生産者の高齢化、離農等で生産地の人口減少などが見られ結果として海外からの食料購入が進んだということ等色々な原因に結びつけたロジックで自給率の低下が致し方ないことのように論じられている。また貿易不均衡の解消のため結果としての必要性を唱える説もある。だが現在の基準で評価する貿易不均衡は必ずしも悪いことなのか? 「これを売るなら同じだけこれを買え!」とは自由貿易、自由競争を標ぼうしていながら輸出と輸入を同額にしろ、そのためには自由はどうなってもよいというのは奇妙な理屈のような気がするが。

 

日本の農地は確かに山間の狭い立地は多い。当然人間集約的な生産活動を余儀無くされる場合が多い。また、平地でも国際的な価格競争で日本での生産が現経済面で成り立たなくなり離農や休耕地が多くなっていることは事実だ。

一方現在活用されている農地はそれなりに機械化が進みかなり少ない人数での採算の取れる農業が可能となっているところもある。農業法人などの発足でその面は急速に洗練化されている。

食糧生産の拡大は単に自給率改善の数値的問題だけではなく、非常時の安全保障上国家として最も大切な政策であるべきはずである。戦争、自然災害、異常気象、疫病等により、いつ何時長期的に食糧生産や輸入が途絶えるかもしれない時代である。
いざというときに主要エネルギーや重要栄養素の生産能力が国内にないことは安全保障上最も脅威である。

 

自給率拡大には、一義的には農地の拡大であるが、それを山間部休耕地の再開や、新しい開墾に求めることは、環境問題や労働力不足、高齢化時代には非現実的に見える。

更なる機械化や技術開発で収量拡大を進めると同時に、穀類以外では農業ビル(植物生産工場)やジオフロントでの水耕栽培の活用のように立体的な農地拡大、都市部の居住地において大量安価に食糧生産が可能なようにすることも一つの方向性だろう。

自給拡大は農業のみならず、漁業においてもしかり。

海流の変化による魚種の変化、海洋汚染の進行、他国の密漁、略奪漁業などによる漁獲量低下、河川改修による沿岸漁場漁業への影響、高齢化による離漁等々、日本食の一方の根本である魚介までもが輸入に頼る状況は、自然環境の回復や放流による資源確保のみでは追い付かない。自然災害、人災、国際ルール等の枷等のリスクから出来るだけフリーにするには完全循環型陸上養殖への挑戦が必要だ。そのためのテクノロジーは確実に進化している。過疎化により無人化した商業施設や商店街、廃校や廃坑等の資産の有効活用にも道を開くものである。そして漁業高齢者は安全に漁業を続けることもできるし、漁業高齢者の経験を科学的に資産としてアーカイブし次世代に資産として残すことも出来る。

大型タンカー等を使った大規模海上養殖場を作って漁場をかくだいしても面白い。

造船業の発展にも寄与することだろう。

海は出来るだけ調和のとれた海のままにしておくことだ。

 

食糧の自給は総合的に、育山、育地、育海、環境保全、空き家問題等につながる広範な解決策としてとらえるべきなのです。
自国で消費せず大国の膨大な消費の為に大切な自給のために貴重な農地や海面の大半を単一の商品を大量生産するために使用することは、長期存続するためのバランスを大きく崩すと共に、その収入で本来自国で賄うべきものを他国からの購入で済ませてしまう行為は依存症の始まりなのである。

 

次に林業のポテンシャルについても考えてみよう。

林業というと山を連想するが、林業は実際には里を中心に考えるべきものである。

農業で触れたように、農業自給の為の耕作地の拡大は農地ビルやジオフロントの活用である程度抑えられるであろう。

林業が結果として自給放棄の状態となったのは、南洋材などの加工しやすさと価格競争に負けたこと。国内材は質は良好なのだが高い。なぜ高いかと言えば、山間の斜面への植林が多く、切り出し、育成メンテナンスには多くの人力(しかも体力のある人力)に頼らざるを得ないこと、そして生育期間が30年~50年と長いことがあげられる。

これを解決するには、農業放棄地の平地、大規模農場の暴風防雪針葉樹林帯等の利用を拡充することだ。植林、メンテナンス、切り出しがかなり容易となり機械化も進めやすく価格競争力が出てくる。一年林、五年林、10年林、20年林、50年林と計画的な植林計画を保ち、炭焼きのための山のローテーションと同じように将来にわたって持続可能なシステムで営林事業を展開するとよい。
日本の木材は、後でも述べる液体ガラス、集成材技術等により、鉄骨にも匹敵する耐久性を持つことが出来るとも言われている。地下資源よりはるかに短い時間で再生する資源が日本にはあるのだ。
山はブナやナラ、クヌギなどの落葉広葉樹を中心とした植生にゆだねるべきだ。それらは、炭の原料として永久に機能することになる。また、その林で採れる木の実や果実、茸類は動物の豊富な餌となり、人間との接触機会を減らす効果もあろう。

人間の真の自給を求めるにはそこに生息する動物の自給能力も高めて行くことで調和がとれてくるものなのだ。

 

 衣食住資源の自給の推進過程で生み出される最新技術は、後に述べる国際関係の外交政策、輸出資源にもなるだろう。

 

資源、エネルギー自給

日本は資源、エネルギーが乏しい国と言われてきた。特に今でいう化石燃料(石炭、石油、天然ガス)は、生産量と価格競争力から全く無いに等しい扱いである。伴って、化石燃料に大きく傾いたエネルギー構造から、エネルギー源もまた乏しい国と言われてきた。

さらに、原油由来の資材(建設資材、日用品資材、衣食住にかかわる原料)に頼る等、一源依存構造が、日本の資源エネルギーポテンシャルを封じ込めて来た。

 ところが今や、技術の発達は、太陽光、風、波力、潮力、地熱、、、、、様々なエネルギーを利用可能なものとし、また例えば集成材や液体ガラスの技術などは日本国内の利用価値が低下してきたと言われている森林資源を、コンクリートや鉄骨に代わりうる資源としてよみがえらせることも可能となってきた。

さらに、海底探査等によると豊富なマンガン団塊、メタンハイドレード。

無尽蔵に存在する石英、塩、石灰石。

探査技術、利用技術の発達は新たに発見あるいは再評価されるかもしれない資源等自給率向上に向けての期待を膨らませるばかりである。

 

今現在の海外に依存している資源やエネルギーを続けることは楽で効率が良い。そのように世界の仕組みを作ってきたからだ。

が、将来の持続性を求めるのであれば、視点と価値感を変える必要があるのだ。

 

日本はかっての鎖国が続いた江戸時代、資源、エネルギーの大半は自給できていた。それはテクノロジーは未熟であったが、工夫の想像力と技術の伝承方法が豊かであったからだ。資源、エネルギー開発は、発見であり工夫の延長であってテクノロジーの発展と共に進んできた。本来日本人が得意とするテーマではなかったか。

石油類を活用した産業革命以来の歴史から、新たなマルチソースとでもいう多様な資源を活用した資源、エネルギー自給革命が今始まる。

 

もちろん、エネルギー資源そのもののみならず風力発電機、太陽光発電パネル他、設備やシステム自体も内製化を目指すべきであることは言うまでも無い。

テクノロジー、人財の自給

食糧、資源、エネルギー、防衛力、これらの長期的な自給体制を確立する上でのキーポイントはテクノロジーである。

今、日本は、データベース、検索エンジン、CPU、プラットフォーム他、重要な分野のコアテクノロジーは皆海外に依存している。

基礎研究などの分野ではまだ世界をリードしてノーベル賞を獲得している分野があるが、応用テクノロジー等ではあまり革新的なテクノロジーが生まれない。(生まれているが実用ベースにのることが環境として無い。)

内から湧き出る革新的テクノロジーの波動が他のあらゆる分野での内製化の実現を支援し担保するものだ。

革新的なテクノロジーは、得てして軍事的側面即ち争いの中から生まれてきた。調和の中から新しいテクノロジーは生まれ得るのか。

自給とは自己完結能力。これは、自衛隊や各国の軍隊に共通して追求される能力である。つまり、革新的テクノロジーが生まれうる土壌は一緒なのだ。そこには高度な工夫精神と達成意欲が不可欠となる。一方自己完結網力を放棄して色々な分野で依存症に陥った集団からは一部最先端の革新的テクノロジーが開発されるが、多くの分野で革新的なテクノロジーをが生まれるに必要な環境が消滅する。

故にテクノロジーは内製化推進のために必然的に発展せざるを得ない必用条件なのである。

テクノロジーが国外依存ではあらゆる分野の本当の意味での内製化が実現できない。
ためには、子供が何にでも触れて見られる環境と、高専制度のような若い時期から腰を据えて研究できる環境を整える必要がある。

 

テクノロジーと同様にあらゆる分野の内製化推進に絶対必要条件が人財の内製化だ。

人財とは人口である。人口の多いところが人財の内製化推進の可能性が高まる。

中国からどんどん人財が生まれてくるのは人口が多いからであり、米国からどんどん人財が生まれてくるのは移民により人口を増やしているからである。

少子高齢化+人口減少は人財の生まれてくる土壌が瘦せることと一緒。まず、長期安定的に人口を増やすことが内製化推進のための人財確保上も肝であると同時に、後に述べる需要の内製化つまり内需の拡大の肝でもある。この人口の安定増加があらゆる構想が実現するための肝である。
だが、今は子供を産みましょうというと非難されるという不思議な時代だ、決してそんなつもりで言っているのではないのだが、「差別だ」「強要だ」、、、、と非難される。

だが本質を考えるとこれは全ての自然界の本質である。人類の継続を考える場合、あらゆる分野でその前提は子供が増えて行くことだ。移民を受け入れればよいという考えは、人財までが依存症に陥るという安全保障の衰退につながる。

内製化は地方に生産力が戻ること、即ち仕事と経済のマーケットが戻るという事。子供を作り育てる環境が地方に増えて行くという事だ。

その中から人財が様々な可能性を背負って涌き出て来ることだろう。

近年の少子化対策は直接目で見える部分だけの生まれた子供の育児支援に偏っているように思える。

 

安全保障と内製化

現在の形でのグローバル化が進んだ社会での自国の安全保障は、自国に不足するもの、諸々の資源の争奪、つまり無いものを他国に取りに行くことから始まる。

火器による武力衝突はしていないが、経済もまた静かな戦争といっていい。経済という名のもとの侵略戦争が起きていることが実態だ。つまり国際分業が高度に発達した経済世界では自己完結型の安全保障は実質的には既に瓦解していることとなる。

武器であれ、経済力であれ他国から必要なものを略奪してくる形ではこの問題は解決しない。

この問題を解決するための有効な方法の一つは、自国他国双方の安全を保障すること。

安全とは、不足するもの(特に衣食住の必需品について)が無い、満たされている状態。しかも、自らがコントロールできる自国生産で満たされていることであろう。

各国が満たされていれば略奪争奪はおきない。

つまり、自国も他国も自国生産品にて必需品が満たされていること、つまり内製化が進んでいることが争いの火種を少なくすることにつながる。

現在は、食糧、資源、エネルギー等の必需品だけではない理由での紛争(宗教、麻薬、かね、、、これらも人によっては必需品か?)要因も多く、内製化だけで紛争を回避できるものではないが、、、、、。

アフガンで活躍し残念ながら命を落とすことになった中村医師はアフガンの内製化を進めるための大きな印を示したと言えるでしょう。

 

自国の内製化を極限まで進め、他国の内製化推進を尊重し実現に協力することこそ、そして自国の内製化の権利を他国に認めさせ、場合によってはその実現に協力をしてもらえる関係と体制作りが目指すべき外交であり、目指すべき安全保障なのである。

 

また、あえて言えば、従来概念の国防(領土防衛)能力はそれこそ純粋に内製化すべきであり、今日のIT時代、使用武器の心臓部がブラックボックスとなりそれを他国に握られているという事はリスク管理上最大のリスクを抱えていることと同じなのである。

 

昨今は地方に限界集落が増え、外国資本が土地を買いあさっているらしい。また日本特有の長い海岸線は過疎化の進んだ今日、不法入国解放区のような無防備状態。地方に職場があり日本人が多く住み監視の目、情報網が行き届けばそのような安全保障上のリスクは軽減する。

 

内製化促進は日本に職場を戻し、地方に職場を復活させることに直結するとともに、国土防衛の要なのである。

 

さらに言えば内製化の放棄とは文化の放棄に他ならない。今日のグローバル化は文化の国際化で知られていない文化を広めるという前向きな面もあるが一方、文化の競争の面があることをわすれてはならない。占領政策で真っ先にとられるのが文化の押し付けだ。

今日の日本の文化の大半は他国の文化に置き換わり、伝統文化は消えようとしている。伝統文化が博物館に入り日常は他国の文化で暮らす妙。自国の文化は内製化の工夫の中で生まれてきたものなのだ。

内製化と外交、貿易

政治が考えるべき経済政策は最終的には内需拡大に行きつく。

今、内需拡大が望めない国づくりを長年続けてきておきながら尚、外需がうまくいかなくなるとそして外圧があるとおっとり刀で「内需拡大」を声高に叫ぶ。しかしそこには本質まで踏み込んだ考察は無く、対処療法的なアイデアベースの論議がされるばかりである。内需拡大が望めない国づくりを見直していないからだ。

内需拡大の根本は人である。

経済=人口ともいえる。人口の多いところには経済のポテンシャルが大きいことは間違いが無い。

少子高齢化とはエネルギー(あらゆる物質)の消費力が衰えるということであり、人口減少とは経済の規模自体が縮小してゆくということである。

人は、個人に差があってもマックスで見た場合の一人当たりのエネルギー消費はその経済体の中では大きな違いは無い。

つまり、経済の本質である内需拡大は、少子高齢化、人口減少時代には望めないということである。それでもやっていけるのはそれだけ国内に生産活動が必要が無いからなのである。
今内需拡大するためには、人口を増やすこと、少子化と高齢化を防げばいい。

そのためには、国内に人口が必要な生産活動を増やしていくことだ。これまで、短期基準での効率や採算を考えて生産活動を安易に求めた結果、仕事並びに物資の慢性的な不足状態を国内に引き起こしているリスクに気が付かなければならない。

 

究極の内製化は国家で必要な衣食住資源エネルギー、サービスを全て自国で 賄うことであるが、それはどこの国家においても不可能なことだ。

内製化率の拡大を目指しつつも、内製化向上を達成するために必要なテクノロジーや資材などの調達及びどうしても不足の資材などは貿易に頼ることとなる。

然しながらこれまでと本質的に異なるのは、あえて内製化を放棄してまで貿易額の拡大をと貿易による利潤の拡大を際限なく目指すものではなくなることだ。

 中東を中心とした移民問題、貧困、格差などの問題は、国内内製化の推進で雇用が増加し、多国がそれを支援する援助投資を行うことで国情が安定化すれば、少なからず解消に向かうことだろう。

内製化を援護する政治、社会体制

内製化が調和の上に拡大して行くためには、社会の諸制度、体制がそれにふさわしいものでなければならない。そのための立法、行政を司る政治そのものも然りである。
調和ということではおそらく、「〇〇主義」というイデオロギー別の政治集団による政治は相応しく無いのでは無いだろうか。
近代の社会は、資本主義VS共産主義、自由と民主主義VS専制主義等二者択一のイデオロギー対立を煽って(意図的に争いを作り出し)歴史をたどってきた。
双方とも「人民の平和、世界平和」というとても抽象的な目標をスローガンに掲げその手段として唱えられているが、結果としては真逆の主張争いが延々繰り返されるのみである。

その争いの結果生まれてきたものは、どこまでも限りない疑心暗鬼と軍備の拡大である。つまりイデオロギー対立は一方を完全に駆逐しない限り「平和」には結びつかないものである。

「平和」の概念を世界の国々が夫々に内製化を達成する姿に置き、拡大推進を目的に、その目的の姿及び到達目標とプロセスを議論し合うのであればより「平和」の実現に近付きやすく意味があるのではないか。

「自由・平等・博愛」は近代の世界に放り込まれた混乱の元である。究極の自由は平等を崩壊させ、究極の平等は自由を否定する。究極の博愛(すべてのものを平等に愛すること)は自然界にはあり得ない。人間も自然の一部分である限り抗うことは出来ない。人はこの「自由・平等・博愛」を時には自分の行動の欠点、失敗をとり繕う為に使用したりもする。自然界での唯一ある調和は住み分けだ。

まず政治はイデオロギー争いから脱却すべきだろう。

 

諸々の格差が積み重なって混乱が深まっている貧困問題についてはどうだろう?

過去から飢饉などで貧困が広がり出した時、政治家は仕事を作ることで対策してきた。アメリカのニューディール政策もそうだし、飢饉の村で地主が屋敷を作り多くの住民に仕事と食い扶持を与えてきた例は日本各地にある。これらは施しでは無い。

近年は貧困対策に施しが増えた。いかにもやっている感を出しているが選挙目当てのうけを狙ったものに見えてしまう。国家間では結果として還流するマネーを狙った狡猾な投資や、収奪により得た巨大な利益に対する免罪符、批判のガス抜きに見える。このような政策に全く意味がないとは言わないが、一部緊急的にどうしても必要な場合があったとしても本質的な解決には結びつかない。

内製化の推進は、全国、全世界各国に仕事が生まれ、労働で対価を獲得し、納税に結びつく好循環を生み出すこととなる。

単なる施しに頼った制度は危険だ。施しは天使のような顔をして、依存症と無気力を作り出す。本当に必要な方への支援とは全く異なる。

欧州を中心に問題となっている移民問題。収奪と、安易な施し感覚での移民受け入れはさらに移民を生み、移民依存症(移民を放出することで国内を自分のものにしようとする勢力を助長+移民受け入れにより嫌な仕事は押し付けあわゆくば経済が拡大すればという意向)が拡大する。

移民問題解決対策の本質は、対象国の内製化促進を支援することだ。労働の場所を増やし安定的な生活が生国の自国内で続けられるようにすることに他ならない。

 

本来企業は雇用の維持と納税という社会的責任を担っている。しかし今日特に傾向が著しい株主利益至上主義のような風潮は、企業評価の中心は株主利益の最大化であり評価するのは特定の株主である。しかし本来持っている企業の社会的役割から言えば企業は雇用と納税の実態及び市場に提供するサービスの内容によって社会が評価すべきものであろう。内製化推進における企業評価の基準が全国各地で行われる雇用と納税の実態によって行われることにより、地方の中小企業の社会的貢献意義が見直され、さらに地方に職場を作り都市部と地方の格差を圧縮することとなるだろう。

 

終わりに(去り行くものより、若者よ)

今月は2021年12月。来月は68歳になる。

私は健康年齢余命は5~7年、20年もすればこの世ともおさらばせざるを得ないだろう。

若者よ、君たちには未来がある。大いなる未来はあるが時間は無い。

 

今、君たちの行動を決めているのは君自身だが、その行動に枠をはめているのは社会ルールや制度でありそれを決めているのは政治だ。政治家は我々のような年齢の長老がまだ多く、政策決定、法律作成の重鎮だ。

 

「その船を漕いで行け お前の手で漕いで行け」「おまえのオールを任せるな!」

中島みゆきの「空船」の歌詞を借りていえば、君たちの未来の絵を描く重要な作業を、余命少なくかつ情熱の失せたような長老に任せるな。

政治に興味を持ち参加せよ!

 

そのためには君たちは「考える努力、学ぶ努力、組み立て検証する努力」を怠るな。未来を組み立てられる自分になるためには君たちには時間が無い。

 

2021.12