企業の社会的責任(パナマ文書に思う事)

 パナマ文書、今世紀最大級のリークだ。今後しばらくは大きな話題となるだろう。リークされたデータは膨大で内容はまちまち、中には全く問題とされないものも沢山あるようで、身に覚えがない、あるいは特に問題のある取引ではないのに名前が掲載されている個人や法人は気の毒だ。

 一方積極的に資産隠し、税金逃れに活用していた方は、いかに合法的であるかを証明するかあるいはこじつけようかと必死だろう。

 

 私が今回の件で思うのは、企業の社会的責任とは何だろうということだ。

 資本主義における原則は 「企業の社会的責任=株主に対する責任」 特に大手企業を中心にグローバル化が進む中で資本主義先進国の米国に倣う考えが主流になってきている。「企業はだれのものか」という世論調査をすると、米国では過半数が「株主」、日本では過半数が「社員、社会」と答えるそうだ。

 

 経営学、企業論等、著名な先生方々が学術的な考察を提示している。私はそこまでのものを持ち合わせてはいないが、長年中小企業を調査して得た知識、企業経営に長期にわたって携わったものとして、独善的ではあるがたどり着いた現時点での考えを披露する。

 

 社会、経済を構成する基本は何かと言えばそれは「人」に他ならない。「人」を基本とする社会の構成単位として活動を続ける企業は、まず「人」とのかかわりを明確に意識する必要があるだろう。企業と人の最も強いかかわりは「雇用」であろう。「雇用」とは人に、生きる為の糧を得、世に自分の能力を示すためのステージを提供することであり、人生そのものを直接的に支援することである。もう一つの重要なかかわりは「納税」である。国家に納められた税金は、様々な形で「人」が安全に、快適に生きてゆくために必要な大切なインフラ、制度の構築、維持に使われる。これは、人生そのものを間接的に支援する行為に他ならない。

 つまり、「企業の社会的責任」とは「雇用」と「納税」が最も大切な社会的責任なのである。他にも色々な責任の種類と段階はあるが、いずれも「雇用」と「納税」の大切さを補完するものである。この観点から考察すると、パナマ文書で公開された中で課税逃れを目的とした取引として名の上がった企業は、最も大切な社会的責任の一つを意図的に回避しようとしたのであるから、悪質だ。納税を重要な義務として真面目に経営し、納税出来ることを誇りにしている中小企業は沢山ある。経営の精神レベルは企業の大小には全く関係がないのだ。

 「雇用」についても似たようなことが言える。近年はリストラという言葉があまり抵抗感なく聞かれるようになった。業績が悪くなってきた場合、リストラするのは当然であり、リストラとは「コスト削減」=「人員削減」という風潮である。最も需要な社会的責任として雇用した社員の人件費は物品の費用と同じコストなのだろうか。

 様々なハンディキャップを背負った人間、複雑な過去を引きずった人間、まだまだ未熟で自信のない人間等に寄り添い、何とか社会に役に立つ存在となってもらおうと人生のステージを与え続けている中小企業は沢山ある。経営の精神レベルは企業の大小には全く関係がないのだ。

 企業の目的、経営者の意識が、本質的な社会的責任である「雇用」と「納税」から遊離した場合、企業は迷走を始めるのかもしれない。

 経営者たるもの、経営者になろうとするものは社会的責任の学習、熟考が必要である。

 

2016.5