軍艦島(端島炭坑)

 三菱石炭鉱業㈱端島炭坑 通称「軍艦島」で知られる、世界文化遺産だ。

 例によっての「行きあたりばっ旅」。平戸から西海(さいかい)、外海(そとめ)を通り長崎の市内を抜けて、野母﨑(のもさき)を目指す。何の当てもない、端っこに行きたかっただけだ。その海の先には遣唐使の島「五島」があるはず。みえるのだろうみえるか。

 海岸沿いに車を走らせていると、右手に島列が見える。その中での一島、ガキガキしている。なんだろう・・・・・・・・・?

 

「あれか! 軍艦島だ!!」

 

『軍艦島』のことは昔から聞いていた。最近も福山雅治が取材した様子をテレビで見た。だが、地理的に具体的にどの位置にあるのかは知らなかった。

 少し興奮気味に車を走らせ野母埼にたどり着くと、そこにはおあつらえ向きに「軍艦島資料館」があった。閉館時間までそれほど余裕の無い入館だったので見学者は数人。

 

 年間最高出炭記録411,100t、ビーク時5,300人が住む65,000㎡の島。人口密度は東京以上だったそうだ。全島民の自宅には、当時としてはあこがれの的だった三種の神器(TV、冷蔵庫、洗濯機)が揃い、水道や燃料は全て会社支給、電気もわずかな電気代で使い放題、日本一裕福な島は24時間不夜城のように明かりがともり、島全体が灯台の役割までをはたしていたという。「端島は稼げる!」日本一裕福な島だったのだ。

 それが、明治23年三菱による採炭開始以来84年の歴史を閉じたのは昭和49年1月15日。昭和46年のニクソンショックに続く変動相場制への移行は、たちまち国内炭の価格競争力を奪い、島は閉山後のわずか3か月の昭和49年4月20日に完全に無人となった。以来45年、世界文化遺産になり、令和の時代を迎えた。島は年々崩壊が進む。今日の姿は明日もある保証が無いということだ。

 これは、ここまで来て上陸のチャンスを逃す選択肢は無い。

 

 岬の裏手にある強炭酸温泉で汗を流し、すぐそばの港を出発する上陸ツアーに電話をしてみる。

 「明日(日曜日)の予約はいっぱいです。明後日ですか? 何人ですか?ひとり? 24,000円かかりますよ。」「えー!」「長崎の方ならまだ空きがあるかもしれません。」

 ネット検索すると「ラッキー!」。明日の午後の上陸ツアーに空きあり! 早速予約を完了させる。

 明日を楽しみに今夜は野母岬で一泊を決定。日暮れの軍艦島を眺め、鳶の笛を聞きながらドローンで島影を撮る。


 長崎港「軍艦島クルーズ」の窓口は国際色豊か。上陸誓約書にサインをもらう女性スタッフは多彩な対応を要求されています。

 クルーズ船は意外に大きい。10連休最終日の最終便も定員一杯、欧米系の観光客も意外に多い。

 長崎港を出発して約30分、軍艦島に到着。近寄ってみるとなるほど島内の建物という建物は窓ガラスも皆無でかなりあれているが、感心したのは島の外壁、コンクリートブロック壁の損傷が海上から見る限るほとんどない。素晴らしい技術である。

 上陸後、クルーズツアーの集合場所となる広場へ向かう途中、島内一番の高地に建つ3号棟を仰ぎ見る。上級幹部用アパートで間取りが広く内風呂があり島の憧れの住宅であったそうだ。かつっては緑のない島と言われた軍艦島だが、閉山後半世紀近く少しずつ緑の島へ変貌しつつある。


「端島小中学校」はかなり大きく立派な学校だったようだ。教育にはいつの世も熱心に情熱を注ぐもの。給食を運ぶためのエレベーター(島内で唯一)もあったということだ。大きく穴の開いた屋根は今では海鳥の住処か。


 作業区は島の南半分の場所を占める。赤レンガの建物が総合事務所、そのすぐ右横に主力抗だった第二竪坑。ここから地下600mへ下り水平に2㎞進みさらに500mほど下がったところが採掘場、湿度95%、気温30度、気合と覚悟と使命感が無ければできない作業だ。

 作業は24時間3交代制、落盤事故の恐怖とも戦い真っ黒になって帰ってきた家族の待つ島は、まさに地上の楽園に感じたであろう。

 交代で地上に返ってきた作業員は、目と歯以外は真っ黒。最初は着服のまま海水の浴槽につかり汚れを落とす。次に海水と真水の混合水に入り、最後はシャワーを浴びて元のお父さんとなって家族のもとに帰っていった。冷蔵庫で冷えたビールはさぞかし美味しかったことだろう。


 島の南西部には日本最古の鉄筋コンクリート住宅がある。30号棟だ。鉱員住宅となっていたが、中には共同浴場、郵便局、売店、理髪店まであり、この一角は島の人々が集う憩いの広場ともいえるような場所であった。

 このように、生活に必要なものは何でもあった端島だが、唯一、島内に無かったものがある。火葬場と墓地だ。火葬は近くの別の島で、納骨は島内寺院の骨堂のようなところに預けられていた。

 30号棟あたりまでは悪天候時にぬれずにたどりつけるように船着き桟橋から長いトンネルが通っている。写真はその入り口。


 30分~40分の島内見学で島を離れるとクルーズ船は親切にも島の北西側を周回してくれる。上陸地点は島の南東にあるため、上陸までは見ることが出来なかった光景だ。

 北西面にはコンクリートアパートが乱立している。なるほど高い人口密度がわかる。この面は台風時の風波が激しいところ。時には島全体を超えるような波もあったということだ。

 島の生命線ともいえる石炭の生産設備は台風被害の比較的少ない南東側にある。人々の住居のアパートは設備を守る防波堤の役目も果たしていたようだ。端島の最大の脅威は台風であった。

 

 そして最も印象的だったのが、島頂にそびえる端島神社跡。かつては盛大にお祭りも行われた島の守り神だが、今では祠のみが残り、それも空洞となってしまっている。

 

 端島が「軍艦島」と言われるゆえんは、島を南西会場から見る角度が戦艦「土佐」に似ていたからだ・・・・とさ。


 この地域は、上陸できる確率は低い、その場合は周回だけで帰って来るそうだ。令和元年の5月6日、初めての訪問で上陸できたのはラッキーだった。

 

 端島の歴史について、細部まで学んだわけではないが、日本の産業振興、高度成長を支えるために先端の技術を結集し、すべての人々が懸命に努力し、共通の目標に向かって一致協力した姿がそこにあった。

 何事にも永遠は無い。世の中は常に変化し、伴って惜しまれながら役割を終えるものは多い。

 

 端島炭坑もその一つだが、劇的ともいえる幕切れは様々な思いを呼び起こす。

 当時の若い男女の恋愛や閉山後の鉱員の人生、撤収時の作業と心情等々に思いは巡る。

 

 灯が消えて、灯台の役割を失った端島には本物の灯台が立つ。それは島内で今生きている唯一の人工物だ。

 年々、自然風化と共に台風による破壊が進む端島。行くなら早い方が良い!