失言ブームと言葉の抹殺

 昔から、失言は日常的にあった。「貧乏人は麦を食え!」等のフレーズや差別言葉と言われる単語そのものの使用等、総理大臣や大統領から家庭での虎の尾を踏む亭主の失言まで。言葉があり、会話がある、言葉のやり取りがある限り失言はつきものだ。

 

 言葉が失言になるのはいくつかのケースがある。

①使うべきではない場面で使ってしまう本来の失言。

②言われた方が失言だと思い込む、セクハラなどと同様に被害感情に伴う失言。

③失言をさせるためあるいは見つけるために、誘導尋問したり前後の文脈を消し去ったりすることで、失言性を際立たせる被誘導失言。

 

 近年は政治家を中心に失言ブームと言って良いほど失言だらけに見えて来る。

 これは、マスコミの進歩あるいはレベルダウン、さらに最近ではSNSの形で会話の形態がかわり言葉を不特定多数の公に発する機会が増えてきたからだ。

 そして、第二次大戦後急速にひろまったグローバル化、平等主義の拡大がそれに拍車をかける。いまや、失言の国際標準規格でもできているかのような神経質ぶりだ。

その話題になる場合の中では、当事者の代弁をするような形で行われる③のケースが一番目立っているように思える。

 

 失言は、社会的な地位のある人ばかりではなく、我々も十分に注意したいものだが、失言の糾弾から派生して、言葉の抹消の傾向が出てきているのが気になる。

 時と共に価値観は変化し、かつては失言の範疇に入らなかったものが失言として非難される場合が出て来る。そして言葉も見方や使い方によって変化する。

 例えば、「盲(めくら)」という言葉がある。今では身体的欠陥を表現する差別言葉として使用を非難されている。そのために、勝新太郎時代の「座頭市」の劇場放映の機会はほとんどないし、落語の「あんまの炬燵」は高座で聞くことはまれだ。「目の不自由な方」と表現するらしいが、これはただ「盲(めくら)」という単語をフレーズにしただけで身体的欠陥を不自由という差別的ともいえる言葉に置き換えたに過ぎない。本質的には違いは無いのだ。要は使い方で、「彼は盲だから、こうしてその部分を手伝ってあげなければいけないよ。」という場合と「あいつは盲だから、こんなことも出来ないんだ。」という場合では明らかに違う。

 民族の誇りをもって使われている民族名でも、蔑視的感情を持って表現すれば差別だ。しかし、民族名を抹消することは出来ない。

 

 言葉を有効に使うのは人の心であって、言葉に責任は無い。言葉は人類が長年の歴史を重ねて作り上げてきた、歴史的財産。その言葉に善も悪も無い。「良い言葉を使わなければ心も悪くなる。悪い言葉を使うと心がすさむ。」というひとがいる。「言葉には言霊」があるという人がいる。私も同感であるが、もう少し踏み込んでみると、心が言葉と使い方を選ぶと思っている。良いものや悪いものを見て生じた感情が言葉と文脈を選ぶのだ。

 

 話す方も聞く方も、単純に言葉の一面をとらえて言葉をひなんし排除することしか考えていないようであれば、世の中から抹殺される言葉が沢山出て来るだろう。そうなると、小説は表現が狭められ、舞台は迫力を欠いて味気なく、歴史は結果として改竄されるかもしれない。子供に真実を伝え、世界や人生を考える機会を十分に与えるために言葉の抹殺はプラスに働くのだろうか。

 

 糾弾が必要な失言もあることは確かだが、人的パワー、時間、公共電波の無駄遣いになる無益な失言騒ぎはやめよう。そして、失言を言葉のせいにして、言葉を抹殺することはやめよう。

 

2017.12