スーパースター待望論

 会社経営において、もっとも楽しい経営は「スーパースター待望経営」。なぜ楽しいか?「楽(らく)」だからだ。

 『〇〇君は今年も抜群な成績を上げてくれた。君たちも〇〇君を見習って頑張ってもらいたい。』こういうことを社員への訓示や研修で話す経営者がいる。

 そして感想文などを求め、皆が「〇〇さんのようになれるよう努力したいと思います。」と書いてくるのを期待している。役員会などで「〇〇君のような社員がもっといれば、会社はもっと良くなるのだが。」等という。

 しかしながら、翌年も〇〇君だけが抜群で後に続くものは出ない。会社は〇〇君に高報酬を与え、経営者は成果主義等を唱え正しい経営を行ったつもりになる。

 かなり単純化して書いたが、このような考えで経営をしている経営者は稀であるとは言えない。

 

 実は「スーパースター」はどちらかと言えば会社が育成しようと思って簡単に育成できるものではない。むしろ最初から「スーパースター」の資質をもっている。言い換えれば、どんな経営者の下においても「スーパースター」は「スーパースター」なのだ。

 例えば、営業開発で抜群の成績を上げる本当のスパースター社員は、扱い商品が、その会社の物でなくとも販売することが出来る。そういった「スーパースター」はネットワークの作り方、時間の使い方等々、独特の能力を有しているのだ。

 

 この「スーパースター待望論」に頼り切った経営程リスキーなものは無い。スターパースターに頼り切った経営は、報酬の与え方、日々の経営陣、上司の言動にそれが強く現れる。それは、他の社員のモチベーションにプラスになっているとは限らない。むしろ、会社、経営者の視線が自分たちに向いていない、自分たちは役に立っていないと思われていると感じ、会社に何とかしがみついていくことに重きを置く社員も生まれて来るだろう。

 こんな替え歌のように。

 「社員の操」(北海道男 きたみみちお作)

 

 「スーパースター」とは、営業開発をし、売り上げを上げることが最大の楽しみ、生き方の最大のモチベーションとなっている人が多い。その喜びを感じられれば、どんな経営者の下でも大丈夫。言い過ぎかもしれないが、無能な経営者の下でも成果を残せるのだ。

 

 全体を見渡せる経営者は「スーパースター」に気持ちよくパフォーマンスを発揮させながら、経営の大部分を全体の底上げ、全員に「役にたつ実感」を与える仕組み作りに注力する。企業の体質を強固にし、将来不安のリスク(スーパースターもスカウトされ退職するか、あるいは亡くなるかの可能性はある)を薄めることを大切にするだろう。

 

 スーパースター待望経営は、どちらかと言えば狩猟民族的な文化に共通するような感じがする。欧米型の企業経営はもっと高度で、システマチックに組み立てられているが、スーパースター待望を育成というよりもスカウティングを経営の重要な柱において具現化しているとはいえよう。M&Aを多用する経営もそのあらわれだ。大物の獲物獲得が経営の主眼であり、ゾウやライオンを常に狙っている。それだけに、獲物が獲得できないときのリスクは大きい。

 採取文化や農耕文化型とでも言おうか日本型経営では、全員の能力を少しずつ向上させる仕組みを駆使して、全体の成果を拡大しようとする。人財の育成が経営のメインとなるわけだ。

 

 グローバル化によって、大手企業は「スーパースター待望経営」にシフトしてきている(せざるを得ない)。これも致し方ないことだろうが、うまく日本型底上げ経営とマッチした経営を作り上げて欲しいものだ。

 このスーパースター経営は、会社の中に勝者と敗者を明確にし、社内での貧富の格差を拡大するものでもある。それだけに、大きな心配事が一つある。

 

 心配なことは、政治が「スーパースター待望政治」になってしまうことだ。官製春闘とも言える春闘が進んでいる。同時に、「働き方改革」が審議前だ。「一億総活躍」が「スーパースター待望政治」よりも真の「育成型政治」「底上げ政治」となることを願いたい。

 

2018.3