データベースの活用

データベースとは、「検索や蓄積が容易にできるよう整理された情報の集まり。(Wikipediaより)」と定義されている。データ≒情報は昔から豊富にあったのだがその記録はほぼ紙であって蓄積量や検索バリエーションが非常に限定されていた。それでも名簿や紳士録、企業情報要録などは、インデックスをそれなりに駆使しある意味データベースといえるものも出現した。

そのような情報を社会は活用し、未来を構築してきた。

 

そういった社会が一変したのはITの発達だ。コンピュータの出現、インターネットの発明、記憶容量の飛躍的な増大等のハード面だけではなく様々な高度な検索、分析手法等データベース利活用テクノロジーは飛躍的にレベルアップした。

データベースの収集は広域、広範囲にかつスピードアップし、データベースの蓄積は無尽蔵となり、データを抽出する検索エンジンはあらゆる角度からの検索が可能になり、検索結果の分析能力はAIの発達で人類の頭脳を超える程だ。

 

これだけのレベルになると世の中はデータによって全てが間違いのないふるまいに統一されそうなのだが、そうならないのは何故だろう。

世の中、会社経営も、政治も、人生も何かしらのデータの分析に基づいて進めているとは思うのだが結果が個々場合によっては大きく異なる。

 

人、集団、社会は事をおこすにあたって将来への不安から情報を集め分析し意思決定の参考にする。

データベースの分析結果が違う元は思想だ。データ活用の思想によって分析結果はいく様にもかわる。

 

全く無垢の状態でデータベースを活用しようとすれば、入手可能なあらゆる情報を収集し、あらゆる角度から分析し、その結果を肯定して意思を決定する。すなわちデータベース分析の結果を重視して意思を決定する。

しかしなかなかそのような活用は難しい。なぜなら、時々、往々にして受け入れがたい結果が出るものなのだ。

従って通常人は自分に都合の良い結論を期待してデータベースを活用する。その場合することは、「収集する上で条件を色々設定する。」「都合のいい結果が出るまで収集や分析手法を取り換える。」「出た分析結果を無視する。」

 

データベースを活用する意味が無いように見えるが、やりたいことに客観的と思われるアリバイとしてデータベースを分析したという事実を利用するには大きな価値がある。

このような使いかたは何も特別なものではない。戦を仕掛ける場合の大義名分では大半がこのような情報活用が行われている。特に大国が仕掛ける戦争で国際世論を動かす場合はたいがいこのようなデータベース活用がされていると言って良い。

立法、行政における様々な政策立案においてもデータベースが駆使されるが、都合の悪いデータは集めないか破棄することもたびたび発生する。

企業におけるマーケティングでも、どうしても実行したい場合の提案でデータ分析の嘘を付く。

営業交渉とはそのような相手の嘘を指摘することと一緒にみえる。

 

米国最大級のデータベースを保有する民間情報機関との交流の中で気づいた、ことがある。

企業の将来のデフォルトリスク(日本では倒産確率)の評価システムの構築だ。

実際には相当複雑なのであるが、単純にわかりやすく言うと、日本では

・財務内容がこうであれば確率は高いだろう。

・取引先が大手であれば大丈夫だろう。

・代表者がお金持ちなら大丈夫だろう。

等々、一般的に「まあそうだろうな」という分析(感覚)から評価ロジックを作るケースが主であった。

一方、米国企業が採用していた手法。データベースの分析結果を重視する場合は「過去の倒産企業のデータ上の特徴とは何か」を見る。

・過去の倒産企業の社長の最も多い出身校は○○校が顕著であった。

・過去の倒産企業の社歴は○○年が最も多い。

・過去の倒産企業の従業員数が○○人~○○人の間が多い。

等々過去の倒産企業のデータを多方面から分析し、その結果の関連性が高いデータの注目して確立をはじき出す。

一見、「そんなことは経営と関係ないだろう。理屈がつかない。」という項目でも、「理由はわからないが、結果はその様に出ている。」として採用する。この感覚は、データベース有効活用の一つの考え方だと思ったものだ。

 

 

仮説を検証するための活用、結論を補完するための活用はどちらかといえば結論ありきのデータベース利用だ。データ分析結果に意思決定機能は無い。

一方、データを徹底的に分析し、その結果を意思決定の基礎に据える手法は、出来るだけ多くのデータを(あらゆるデータを)、多面的に高度に分析する。

ここから、生まれてきたのが、メタデータ、CPUの発達、データ転送、クローリング技術、AI、XMLなど新言語体制、様々なデータ共有ソフトウェア等々今世界のデジタル界をリードするテクノロジーの数々だ。

 

 

太平洋戦争におけるデータベースの果たした役割の違いはまさにこのようなことであったのではないか。

そしてその結果、悲惨な結論になったのは日本であり、勝利の女神に祝福されたのは米国であった。

 

日本のそれが悪いというわけではない。内容の一貫性を重視する文化か勝る部分は多々ある。

が、これまでのところ、この30年間、未来に向けての備えが強固になって発展していった国々と、行政のデジタル化が必要と叫んだだけで十数年が経過した国との違いは明らかになっている。

 

 一般個人のデータベース活用も、新聞、雑誌、TV時代とインターネット時代では大きな違いとなってあらわれている。

 データベースの検索が高度で容易にになればなる程、若い時から様々な情報に触れることで視野の広い人間形成に大いに役に立つであろう一方、高度でピンポイントの検索が可能な為、関心のない情報には触れなくて済むと共に関心がある分野については玄人が逃げ出すほどの専門性に踏み込める。

その結果は、一般常識が欠如した人、あるいは洗脳されたり、偏狭な考えに陥ってしまうリスクを抱えた人は増えてくるかもしれない。

 

つまるところデータベースを活用するにはしっかりした思想を持つことが大切だということだろう。

 

 2022.03