去年今年貫く棒の如きもの

 「去年(こぞ)今年 貫く棒の 如(ごと)きもの」

 愛媛の俳人、高浜虚子の句。

 年末、掛け取りものの落語でまくらなどにもよく使われるので、耳にした御仁も多かろう。

 虚子が、人の一喜一憂にかかわらず永遠に続く自然界の摂理を言ったものと推測するが、凡人の私にはもっと矮小な発想しか浮かばない。

 

 人は節目、区切りの仕組みを作りたがる。新年、新学期、新学年、新年度、「気分新たに」「初心に帰って」等前向きに進むために区切りが必要なのであろうが、一方で嫌なこと、都合の悪いことは「忘れる」「無かったことにする」「先送りする」という手段としてもかなり有効だ。

 「年内には何とかしなくては」と気ばかり焦るが何ともならない。そのままで大晦日を迎え「ええい!来年は何とかしよう。」これで1年の先送りだが、何となく片付いたような錯覚で自分を納得させる。

 落語の中での掛け取りは、取る側も取られる側も大みそかのぎりぎりまでせめぎあうが、一夜明けて新年になった途端に「おめでとうございます!」とあいさつを交わす。どちらも何事もなかったように新年を迎える。新年早々掛け取りなんて「縁起が悪い」と取る側も取られる側も遠慮をする。「縁起が悪い」のであれば大晦日だってなんだって掛け取りなどしなければいいと思うのだが、なんとも不思議で滑稽な民族だ。

 

 一方日本の四季は貫く棒の中で自然の摂理として生まれる節目。虚子はこの節目を伴いながら日本の四季が淡々と続くことも言わんとしていたのかも知れない。

 そもそも、二十四節季等日本文化が多くの節目節目を大切にするのは、全地球的に見れば特異な極めて恵まれた自然にはぐくまれたものと思われる。

 ところが近年の温暖化。本当の原因はまだ分からないと言いながら、現象面としては急速な温暖化と異常な気象変動。

 長年続いた恵まれた日本の自然のバランスが大きく崩れようとしている。

 年が改まったからと言って温暖化が「ご和算と願いましては」とはいかない。

 「貫く棒」は四方八方枝分かれだ。高浜虚子よ何と詠む。

 

 この恵まれた日本の本来の自然が未来永劫続くようにという願いを込めて、改めて「去年今年貫く棒の如きもの」。

 なるほどと頷き歌をなぞりながら、「来年はいい年にするぞ!」と今年のことは先送り、心も部屋も「大掃除」をする年末です。

 

2018.12