存続か 延命か

 名門神戸製鋼およびそのグループ あらゆる工業製品の基盤となる素材メーカ 技術大国日本を象徴する企業でもある。何が起こってのデータ改ざんであったのか。技術、組織他あらゆる分野で課題があったのであろうが、私がこの事件で最も強く感じるのは、「存続」と「延命」という二つの概念である。

 「存続」とは長く存在すること、長くとはどういうことか、企業であればゴーイングコンサーン、永遠に存在し続けるということだ。とすれば、死につながる要因を取り除き続けることを意味する。

 「延命」とは寿命を伸ばすこと。確実に死が訪れることはわかっているがその死を少しでも先延ばしすることであり、死ななくすることでは無い。

 これをしん研究所流の言葉で言えば、

  存続≠延命

  存続=環境変化をとらえて体質を強化していくこと

  延命=課題の根本解決をそのままに(あるいは放棄)して、

     確実に起こりうる危機を先延ばしすること

 神戸製鋼のデーター改ざんはその規模からいって組織ぐるみの指示があったとしか考えられない。その指示はどうして出たのであろうか。

 

 存続を考えるときにはおおむねその対象は組織(会社)だ。なぜならば個人に永遠は無いからだ。一方、延命を考えるときはおおむね対象は個人となる。

 今回は、納期、検査スケジュールに間に合わせるためであったかもしれない。あるいは、一部の改ざんとつじつまが合わなくなり改ざんを連鎖させなければならなくなったのかもしれないが、いずれにしても誰かの責任が問われてくることが想像される事案だ。そうなれば、発覚すると自分の立場が死ぬ、発覚すれば死ぬことが分かっているが何とかすぐに死なないように、まさに「延命」重視の典型的な事例。結果として今、存続自体が危うい状況となっている。存続が出来なければ、延命云々の次元ではないのだが。

 

 「存続」を考えるときは出来るだけ遠い将来を豊富な想像力をもって予測しなければならないが、「延命」は数日先、数か月先、数年先しか考えが及ばない。

  「存続」は広範な調和を意識しなければ成立しないが、「延命」は短期的、瞬間的な争いに振り回される。

 

 伊勢神宮、出雲大社に出向いて思うのは、永遠の調和のとれた存続とそのための自分の延命を捨てた決断の凄さ。日本の本質は「存続」にあり、「存続」の為に高度に発達したのが日本文化であるのだ。それは、決して保守的ではなく、本質を深く探究して尊重し、それを踏まえて環境に合わせて自らを変革してゆくコア&アクティブ(C&A)な世界観だ。

 

 しかしながら世は、国家において、会社において、あらゆる分野で「存続」のつもりで「延命」を企てるのが常である。

 選挙毎に見られる党や議員の安請け合い、今回の野党再編劇のゴタゴタ、エネルギーのベストミックスと原発、企業での不必要なしがみつき、忖度や同調パフォーマンス等もそうだ。

 ここのところ特に目立つ、日産、スバル他様々な企業の不祥事発覚、しおらしく反省し、再発防止策、第三者機関の検証を唱えるが、それもまた「延命」を念頭に置いた反省に見えて来る。

 不必要な規制と面倒な手続きで意欲を削ぐ官の仕組み、職員は一生懸命ではあるが、「延命」が作った制度の中でがんじがらめになり、さらなる「延命」行為をやっている。

 どうして、こんなすぐわかるような悪事や不祥事を、信じられない!それもまた、「延命」。自分がその場面の当事者となった場合、「延命」に走らないとはだれも自信を持って言えない。

 ああまたやっている、一所懸命なよいしょ合戦もわかりやすい「延命」だ。その裏に「存続」に向けての戦略が育っているのであれば期待が持てるのだが。

 

 医療の世界では「延命治療」が対処療法の一ジャンルとして確立している。この際「延命政治」「延命経営」「延命社会」を定義して、研究してはどうだろうか。

 

 企業の本質、存続、延命の概念を深堀りし、自らの思考、決断、行動が「存続」を意識したものなのか、「延命」を意識したものなのかを問う感覚を養おう。

 

2017.10