「ふるさと納税」依存症の結末

巷には依存症が数多く存在する。

美しき薬中 沢尻エリカ

アル中

ギャンブル依存症

東出何とかは女中か?

私は何の依存症だろうか? 多分何かの依存症のはずだ。

長年、高脂血症で中性脂肪の値を下げる薬を飲んでいる。飲み忘れたり、少々きれた期間があっても問題はないと思うのだが、不安になってくる。これも、依存症のようなものだろうか。

『「依存症」とは、アルコール、薬物、ギャンブル、インターネットゲームなど、特定の物質使用や行為をくり返すことで、それが身体的、精神的になくてはならない状態になり、自分ではコントロールができなくなった結果、自身を傷つけ、周囲を巻き込むなど、社会活動が困難になる問題です。
本人は「やめたくてもやめられない」状態に変化をしており、特定の物質や行為を「よくないことだ」とわかっていてものめりこんでしまいます。』(Oneness Group HPより)

なるほど、それでいけば幸いにも私はまだ依存症とまでは行っていないかもしれない。

 

この度、泉佐野市が総務省を訴えたふるさと納税訴訟、泉佐野市の高裁での敗訴が決まったと大きく報道された。連日民法のワイドショーでも大きく取り上げた。

・法律で認めておきながら、たくさん集めたのはけしからんとはけしからん。

・何でも節度なく集めれば良いというものではない。

等々、色々な論評があふれたがこの際「しん研究所」らしく考えてみよう。

 

ふるさと納税は多くの自治体に夢と希望をもたらした。これまで財政的に恵まれなかった地方の中小、弱小(経済面だけで見た場合)自治体が様々に企画を立てることで、宝くじのごとき宝箱を引き当てることができるのだ。

皆夢中になるのも無理はない。しかしそれはあくまでも余力、文字通り宝くじと思えばいいのだが、数年たつとふるさと納税をあてにした予算づくりに精神も形式も変わっていく。そうなると、ふるさと納税が無いと財政が成り立たない、ふるさと納税依存症の自治体が出来上がる。原発補助金等に見られる依存症等と酷似しているが、ふるさと納税の違うところは国家と納税者の腹が痛んでないことだ。痛んでいるのは、ふるさと納税をする人員が多く住んでいる自治体。東京や大阪などは税収の低下に悩むこととなる。

 

そもそも、ふるさと納税発足の意義は純粋に優れたものであった、と私は勝手に解釈している。私は北海道の片田舎に生まれ、その大地と近隣の人々に包まれて幼年期を過ごした、やがて進学、上京、就職・・・・ 一応真面目に働きそれなりに役には立ったかなという思いはある。が、私を育ててくれたふるさと、私が離れた後両親を見守ってくれたふるさとへは何も恩返しができていない。せめて、今居住地に払っている住民税の一部を、私を育て両親を見守ってくれたふるさとに役立てていただきたいと純粋に思ったものだ。返礼品なんていらない。

つまり、「恩」と「思い」がふるさと納税という形を産んだのだ。

 

ところがいつからか、「恩」や「思い」が返礼品という「欲」に変わった。納税者と国は何も懐が痛まないないので依存症にかかった自治体同しの住民税分捕りあい下克上がはじまった。

 

政府は国の財政が痛まないので安易にふるさと納税の行き過ぎをあおったのではないか。自治体がふるさと納税依存症に落ちいったのは、政府にも責任の一端があると言って良いだろう。

 

さて今後どうするのだ。

ここまで依存症患者を大量に出してしまったふるさと納税、簡単に止めることはできない。ことをなすときにはその本質を学び理解することがいかに大切かということがわかる事例の一つだろう。

払い先を変えるだけで、欲しいものが来る。おかしい! 何かが狂う!と思わなかったのか?

冷静に住民税全体を利用可能な税収部分で考えたとき、、返礼品の分のコストで利用可能な部分が減少する事実は考えなかったのか?

ふるさと納税利用者はこれまで払っているのと同じ納税額で腹も傷まずに降ってわいたように旨いものが来る。高級ブランド品が来る。見方によっては政治家の有権者に対する迎合を税金を使ってやっているのとおんなじだ。

人々の中にも返礼品依存症になっている人が既にいるのかもしれない。

経済、経済と言っているが経済成長に何かのインパクトがあったのか?

 

解決策としては、

返礼品なしで、住民税を文字通りの住居所在地税と出生地税、ゆかりの地税とに分けるのであれば賛成だ。対象自治体にとっては多くの人財を中央に出して日本を支えたご褒美にもなるからだ。

私はかつて講演などで、「ふるさと納税者に自治体の参政権を」と訴えたことも有る。ふるさとへの思いを大切にした返礼(返礼品ではない)としてだ。

あえてやってはいけない解決策は、ふるさと納税を止め財政収入が大きく低下する自治体に得意の補助金を出すことだろう。

 

再び言う。ことをなすときにはその本質を学び理解することがいかに大切かということがわかっただろう。

 

2020.2