平昌オリンピックこれでいいのか

 いやー 良かったね~ そだね~。

 長野娘や道産子娘の可愛強さ(かわつよ)が際立ったオリンピックでした。活躍した当人と制度、資金、技術、精神、あらゆる面でサポートする人々におめでとうと言いたい。久々にワクワクしたりハラハラしたり心がきゅんとなるなど、ときめかせていただきました。

 記録と記憶に残るオリンピックであった。が、しん研究所は「本質の探究」が使命、オリンピックはこれでいいのかを考えてみよう。

 

 クーベルタン男爵が始めた近代オリンピック、オリンピック憲章には「より早く より高く より強く」という本質が掲げられている。

 他にも「参加することに意義がある。」「平和」等オリンピックにかかわるキーになる言葉はいくつも存在するが、近年のオリンピックの実情を見てみると数々の疑問が浮かんでくる。

 

 最近よく問題となるのが経済性、つまり金がかかりすぎるのだが、そのことが様々な不都合を産み、全ての問題がこれに凝縮されてくる。従ってこれを考えることがオリンピックの本質を考えることにつながる。

 毎回、コスト削減対策として旧施設の利用やボランテアによる運用等々経費削減策が検討されるが、結果としてはさほどの削減も無く、むしろ全体予算として毎回膨れ上がているのがトレンドだろう。

 しかし、費用を増大させている最大の要因はそう言った次元の問題ではない。

 

・競技数が多すぎる。

・採点項目があること。

 これが問題なのだ。

 

 あらゆるスポーツ(と思われるもの)をオリンピック種目とする必要はない。芸術やゲームのジャンルに入ると思われる競技や要素までオリンピック種目とする必要があるのか?多くの選手がオリンピックに参加できることはその種目に携わっている人々にとっては嬉しいものであり、それでメダルが取れれば国民は喜ぶが、はっきり言って世界選手権で十分ではないかという競技もある。

 競技を増やすことでどこかの誰かに大きな経済的メリットあるのだろうが、競技数を大幅に減らさない限り、コストは削減できない。

 「より早く より高く より強く」の原点にこじつけなくても結びつく競技に限定すべきだろう。

 

 小平菜穂ちゃん クールで強くて優しくて格好良い。日本人女子がスピードスケートでこんなに輝いたのは記憶にない。スピードスケートとオリンピックを考えてみよう。

 通常のトラック競技は、より早く!とわかりやすい。

 一方ショートトラック。難しい競技だ。仕掛ける、接触、転倒、失格、等々 昔のローラーゲームを彷彿させるゲーム性の高い競技だ。

 それだけに「より早く より高く より強く」だけではなく、より〇〇く が沢山加わる。見ている限りはゲームそのもの、選手は皆素晴らしいアスリートだが、競技としては本来のオリンピックにはなじまない。これは世界選手権を頂点にしたゲームで良いのではないか。

 

 そして採点項目。

 羽生結弦君の演技は素晴らしかった。別格の演技だ。彼の二回連続金メダルは日本人として誇りに思う。

 しかしフィギュアスケートという競技だけを冷静に見てみると、人間の感覚や魂胆が大きく左右する採点要素が多すぎるのだ。採点するということは、審査員が必要であるとともに採点システムを構築、メンテナンスする必要があり、費用がかかると同時に、人が介在するが故に公平性は完全には担保されない。

 ようやくメダルを手に入れた、高梨沙羅ちゃん。大倉山の夏のジャンプ台で次元の違う飛行曲線をみてとりこになった私には、常人では想像もできない精神的な重圧を受け止め耐えている表情が強く印象に残った。

 しかしこれも、最近のジャンプ競技を冷静に見てみると、飛形点というもの、公平という名のもとで自然現象に対抗するゲートファクター、ウィンドファクターというものに疑問がある。

 「より早く より高く より強く」 より美しくという飛形の考慮は必要ではないだろう。必要なのは転倒か否かの判断だけで十分だ。

 そしてジャンプは自然の中で行うもの。追い風向かい風の運不運があるのは当たり前、それを変な数式でいじるからわかりにくい。明らかに遠くに飛んでいるのに負けるなどということが果たしていいのか。これらの飛形採点を廃し、✖✖ファクターを本当に必要なゲートファクター(しかも頻繁にゲートを変えない)に最低限限定することでコストはかなり減ることだろう。

 

 モーグルやハーフパイプ等、技の採点要素が大きい競技にも多くの関心が集まったが、いずれもフィギュア、ジャンプと同様な問題が残る。

 

 今回は「平和の祭典」という言葉が非常にわざとらしく聞こえるようなオリンピックであった。毎度のことと言えるのであろうが特に今回はひどかった。

 印象的なのはIOCが大っぴらに国際政治にかかわることを表明したかのようなオリンピックであったことだ。

 原点に戻ろうという考えは既にIOCの中では死語になり誰も考えていないのかもしれない。

そして、子供から「オリンピックってなあに?」と聞かれた時に、言葉と心が一致するようになることができるのか。

2018.3