鶏口となるも牛後となるなかれ

 春の中央高速を長野まで走った。東京周辺の桜は葉桜になりつつあったが、甲府を過ぎ小淵沢へ向かうあたりは、桃の花は終わったものの、菜の花とこぶしが美しく、桜はまだ蕾が多い3分~5分咲きで、今春の二度目の桜を楽しんだ。その桜に更に春の赴きを与えたのが、まだ雪をタップリ残した南アルプス(赤石山脈)、北アルプス(飛騨山脈)の白い屏風のような連山。

峰々に塗された砂糖の分量は多すぎず少なすぎず、まさにジャストタイミングの出会いである。

 

 通常東京周辺で2000mから3000メートル級の山々を間近に拝むことは無い。私の住んでいる茨城県取手市からは遥かに、運のいい日に、特定の場所で富士山や日光の男体山が観られることがあるがどちらかと言えば非日常的だ。

 アルプスを望ことができるSAやPAに軒並み停車し、連山の案内板などで山の名前を確認するが覚えきれない。甲斐駒ケ岳や穂高岳などの有名どころ以外に沢山のピークが存在する。全体として、アルプスの名前が冠されるがその中に、私にとっては無数の私にとって無名の山が存在する。

 そのスケールに見惚れシャッターを切り続けているうちに、ふと、ある考えが脳裏をよぎった。

 

 これは、大企業、巨大組織に似てはいないか?

 アルプスの総称がホールディングカンパニー、それぞれのピークが参加のグループ企業、最も高く有名なのがグループの基幹企業。似ている。一般市民から見れば、覚えているのは基幹企業の数社、他のグループ企業はそれぞれがかなりの規模で、あたかもかなりの標高がある山にもかかわらず気付かないし注目されない。似ている

 山の場合はその様なことはないが、企業の場合は社長とはいっても、決済の権限は基幹企業やホールディングに多くを縛られる。注目を浴びるのは特定の層で、他の大多数は駒だ。

 同時に重なるように脳裏に浮かんだ山がある。茨城県南部に立つ「筑波山」だ。標高877メートルとアルプスの三分の一にも満たないが、「西の富士、東の筑波」と言われるほどに有名だ。3,776メートルの標高を持つ日本一の富士山と肩を並べるように言われるとは、富士山がどの様に思っているかは無口な山は語らない。

 実際に筑波山を毎日のように拝んでいると、関東平野の真ん中に聳えるだけにその存在感は標高の比とイコールではない。
 四季折々に、朝な夕なに、晴雨雪に表情は多様であり、東京から近いこともあって、観光客や登山者が絶えない。
 企業で言えば、地方でキラルと光る中小企業。技術や確固たる証券を持ち、地域に愛されその存在が広く知られるは数多い。自分の意思で、自分の力で道を開いて行く小さいながらも確固たる一国一城、のようなものだ。

 「鶏口となるも牛後となるなかれ」という言葉がある。「鶏頭となるも牛尾となるなかれ」とも使われる。大きな集団の中で末端にいるよりも、小さな集団を引っ張る立場になれということだ。

 思えば、日本の企業の大多数は中小企業、いわば鶏頭が多く、その努力が日本の発展を支えてきた。しかしながら近年はグローバルへの対抗として、企業のグループの巨大化が進み、若者はこぞって牛尾になりたく大企業へ殺到した。もちろんその組織の中での鶏頭を目指す若者も多いが、牛尾として牛の意思に盲従するのが食うに困らず楽と考える若者も皆無ではないだろう。
 「井の中の蛙大海を知らず」、 小さな城の主人で満足して他の世界との交流を拒絶することにつながる危険も「鶏口となるも牛後となるなかれ」にはあるが、自らの意思と個性で存在感を示す、自分なりの鶏頭を目指す人生に若者よ魅力を感じないか?
 
 山自体そんなことは関係なく存在しているが、山は見る者登るものそれぞれが自分の中に人生を思い、それぞれの世界を観想するものなのだなあ。旅は良いものだ。
2019.4