非効率という効率 美しき日本組織(大相撲)

 近代の経済社会で言われる効率化とは出来るだけプロセスを省き、機械化などで人的労働力を削減して、削減した人的労働力を異なる分野に投資すること。わかりやすく誰もがうなずく素晴らしい内容だ。企業経営や組織ではその運営に携わる者はほとんどがいかにして人件費のパフォーマンスを上げるかを考え続ける。

 しかしながらだ、新たな投資分野が無い場合や新しい投資分野と能力が合わないにはどうなるのか。社員は 放り出され、自分がやっていけた仕事や自信のあった仕事が、もはや人を必要としていないことに気付く。その結果、失業手当や社会保障などの負担が増え、国家の財政は悪化する。

 個別の企業や組織で見た場合には効率的であるものが、全体としてみた場合には非効率となることが往々にしてある。

 先進国には多くの世界的企業が存在する。それらグローバル企業は最先端の効率化技術を開発し、多角的な分野に投資を拡げ、多くの利益を上げる。大企業は効率化により成り立っているといえる。が、では何故、そのように多くの大企業が存在する先進国々の財政が苦しいのか。

 それは、彼らの作った効率化文化が多くのニュービジネスや新種の職業を産み出した一方で、結果として多くの人の職を奪い、その対策としての社会的コストが膨れ上がっていることも事実であるからだ。

 

 異なる考え方の効率も存在する。それは極めて日本的なものの中に見つかる。

 江戸時代、大八車等、既に車輪技術があった時代にもかかわらず、なんと一人の人間を運ぶのに二人の人間が籠を担いでいたのだ。何と非効率なことか。大名行列等の大名籠等は四人で一人を担いでいる。

 しかしながら違う目で見た場合は一人の為に二人が働け、一人分の籠代で二人の人間が食べられるのだ。多くの人に職を与えるにはむしろ効率的な仕組みに映る。失業者が増え、社会が不安定になることを防止することの一助にもなっているといえるだろう。

 

 一見非効率の集合のように見えて、実は見事に効率的な例として、日本文化の象徴の一つ、大相撲を見てみよう。昨今のドタバタは置いておいて、場所の運営について注目してみると随所に近代では一般的に非効率であるといわれるような調和のとれた効率がそこに見られる。

 大相撲の進行合図はほとんどが拍子木だ、木の音ひとつですべてが動き出す。

 かつては仕切りの制限時間は無かった。テレビ放映が始まって制限時間が設けられたらしい。朝から多くの取り組みが行われるが、あっという間に終わってしまう取り組みもあれば、水入りとなる取り組みもある。しかしながら、必ず放映時間に収まるような結びの一番になる。時計係の審判が微妙にコントロールしているのであるが、「時間が余りましたので何分間調整します。」とか「✖✖時から再開します。」とかのアナウンスは無い。実際には取り組み間の時間を延ばす必要があるときも生じるのだが、観客には特別退屈には映らない。勝負審判の交代時の時間調整や、さりげなく土俵ならしの箒が入る等の調整が行われている。

 また、全ての(ほとんど)作業が、人手で行われている。取り組みと勝敗をランプで示す電光掲示板を除くとほとんどが手作業だ。

 最も感じるのは懸賞金の垂れ幕。呼び出しの皆さんが、一人一枚を掲げて土俵を一周するのだが、土俵のつり屋根の周りに電光掲示のポップ広告の設備をつくれば、人手はいらず幕を作成する必要も無い。だがそれをやらない。

 呼び出しは裏方のゼネラリストだ。専門化や機械化して効率化(今で言う)することもできるのだが土俵の主役の為に何役をもこなす。実にさりげなく効率的に淡々と役割を進める。

 土俵上の取り組みだけではなく、場内をキョロキョロするのが好きなのだが、おかげで組織や効率についての気づきを得ることが出来る。

 

 国家の場合も、最も効率的なのは国民全員が役に立っていること。「一億総活躍」政府が掲げるスローガンは言葉はその通り結構だが、人が出来るものは出来るだけヒトが行うという分野も大切にしなければ、「一億総活躍」はあり得ない。

 一見単純と思われるようなものでもひとが行うから深みが生まれ、それと日本人の突き詰める特質が組み合わされて、職人文化が生まれているともいえ、名人、思わぬ傑作が生まれるのだ。

 

 本当の効率を考えるには広い視点が必要だ、近視眼的視点での効率化のみを求め続けると、世界はますます矛盾多きものとなるだろう。

 

2018.2