裁判員制度が始まってもうじき10年になる。時のたつのは早いものだ。
間もなく新たな裁判員候補者の通知が20万人に発送されるということだ。
私はまだ候補になったことは無い。これまで候補になった方、実際に裁判員として参加した方々は、大変だったであろう。心の病になる方もいたと聞く。一方必ずしもマイナスの反応ばかりではなく、参加してよかったという声もないわけではない。
いまさらながらだが、そもそも裁判員制度の発足のきっかけから見た本質を考えてみたい。
裁判員制度発足の動機としてよく聞かれるのは、世間一般的な市民の見方や考え方を判決に反映させようということだった。
裁判官だけでは世間一般市民の感覚が判決に反映させられないからだ。
私も被告、原告双方で法廷に立ったことがある。複数の地裁、高裁の裁判官と接したが、皆さん頭脳明晰だった。しかし、優秀で法曹界での純粋培養のせいか確かに世間一般から見た見方が出来ない方々が多いなとは感じた。
そのような感覚を持っていたところに平成21年の制度発足となり、その際、裁判に一般市民の感覚を反映させるのであれば、裁判官は実際に法廷を仕切る前に3年でも5年でも、一般社会の底辺での労働を経験するのが1番ではないかと感じたものだ。なにも日々忙しい中一生懸命に働いている一般市民の方に、精神的物理的犠牲を払わせてまで裁判官の経験をさせる必要はないのではないか。
聞けば、裁判員の審議過程では裁判官がプロの見方の方向に結論を誘導するようなことも実際にありうるらしい。であるならば、この制度は単に裁判官の責任を一般市民に分散しているようなものでは無いのか。市民感覚を反映させましたというアリバイ作りとも映る。
法科大学院の制度が出来て、日本はアメリカ並みの人口当たり弁護士数(6000人に1人)を確保しようとし、弁護士を乱造した。その結果、何でも訴訟に誘導する風潮が生まれると同時に、弁護士の競合が激しくなり、不祥事に手を染める弁護士も目立つようになっている。アメリカ並みになることが社会の進歩と考えることが皆正しいとは限らない。
この弁護士を増やす政策の一方で、増加するであろう訴訟の件数に備えて裁判官の数も増やすという予定があったやに聞く。しかるに2008年~2016年でみると、弁護士は25,014人から37,680人と12,000人近く増えているのに対し、裁判官は2,685人から2,755人と70人しか増えていない。
これではますます余裕をもって裁判官に社会経験を積ませることは不可能だろう。
極端な物言いに聞こえるかもしれないが、これでは一般社会的な視点で見た場合、裁判官の社会人として未熟なつけを市民が犠牲になって払っているようなものだ。
一度導入した制度、より良いものをという口実でもっともっと市民参加型が徐々に国民の義務として強化されていくことだろう。何故この制度が必要となったかに立ち返って組み立て直しが必要だ。裁判官の皆様、この制度発足は皆さんの社会勉強不足が裏にあったことを忘れないでくださいね。
2018.11