新型コロナが教える自立(海外依存症解消と工夫の精神)

 私のふるさと「せたな町」にまで感染者が発生した。

 高橋町長はじめ、町の職員の皆様のこれからの終息の目処のたたないご苦労を思うと心が痛む。

 鈴木北海道知事のリーダーシップが奏功することを願っています。

 

 全国的な新型コロナ対策では安部総理以下国をあげて感染拡大に対応している。その対応に賛否両論噴出しているが、あえてその論争には加わらず、今だからこそ、今学んでいる事象から将来の国のあり方を考え始めていたい。

 終息後、また「何事もなっかた」ようにならないように。

 

 安全保障とは、集団の存続を脅かすであろう事象に対処すること。いわゆる、リスクマネジメントの根幹だ。

 近年、安全保障と言えば=「攻めてくる敵を先に攻めるための法整備、法解釈、先端軍事装備」になっているような感がある。

 そういった議論は安全保障の一面として大切なものであるのだが、それ以前に、守るべき集団が健全に存続していなければ、軍事的な安全保障も必要なくなるのだ。

 

 いま日本という集団にとっての健全な存続リスクの最大のものは、国家の健全な存続に対する脅威の認識の履き違えだ。

 その中でも最上位と言えるほどに重大なのが海外依存症と考える。

 グローバルという名のもとに、ごく近視眼的な経済効率をもとに築き上げてきた近年の繁栄、さらにそれをそのまま続けようとする結果生まれるさらなる依存症の重症化、これが最も日本の安全保障をゆるがす要因であることを気づかされたのが、日本が内製化を放棄して支援し成長をとげた中国が発生源(中国が発生源ではないとする主張もある)とされる新型コロナウィルスであるのは皮肉だ。

 

 先日、下町にある呉服屋さんや海鮮酒場で聞いたところによると売り上げは60%減だそうだ。インバウンドの推進という海外依存に特化した経済繁栄が大きなリスクとしてわかりやすく襲い掛かった瞬間でもある。私と話した店主はその後金融機関へ緊急融資の相談に走った。

 日本企業が進出して作った中国のマスク工場、十分に生産し製品はあるのだが中国政府が緊急に国外輸出禁止措置をとったため日本に輸出できない(それどころか工場からの持ち出しも出来ない)。こんな理不尽なことが突然始まる。これは中国だからではない、非常時にはアメリカであってもありうる、立場がかわれば日本も行わざるを得ないかも知れない行為なのだ。

 海外依存症原因で発生した混乱は枚挙にいとまがない。

 

 海外依存症と新型コロナウィルスは直接は関係ない。どのような国であっても国境を越えた疫病が蔓延する可能性はある。だが、この件で、観光客が激減し、必要な資源や製品の輸入が止まり、日常の必需品が品薄となり、国民の生活・産業の健全な存続が脅かされる。海外依存症が国家の健全な存続への脅威に結びついたことは事実だ。

 新型コロナウィルの発生を止めること、その感染を完全に阻止することは地震予知に似て不可能に近いだろう。問題は発症後の対応能力であり、それによって発生する様々なリスクの根本原因の解消に備えること。しかして海外依存症を問題視したい。

 

 海外依存症が本格的に始まったのは明治維新。以降150年間で失った安全保障の根本を今取り戻す時が来たと言える。いわば、鎖国をしない江戸時代(封建制の賛美ではなく、工夫の文化による内製化時代の象徴) を新しい技術と新しい国際協調の思想で築いていこう。

 

 海外依存症の解消はすなわち、内製化の促進である。

 内製化の推進は永い目で見た場合、中央への一極集中を解消し、地域創生、少子化、人口減少問題の解消にもつながる。

 実際の構図は次のような簡単なロジックにとどまらないが、

原材料製造の内製化・加工生産の内製化→地方での生産拠点の確保(農場や工場)→労働人口需要増→都市からの人口移動、地域の人口流出の歯止め→町の拡大や発展→新生児の増加→人口増加→学校や文化施設の充実→内需拡大

という絵が想像できる。

 物品のみならず国民の内製化(移民等に過剰に頼らず生産力を維持できる)という絵も見えてくる。

 

 資源とエネルギーが無い国と言われ、「そうだ」と思い込んで進められてきたのが海外依存を進める政策。かつての技術水準、情報能力で大量生産を目指すとした場合海外依存を高める以外に方法が無かったであろうことは事実だが、今や、技術力や情報力は次元の違う水準にある。隠れた新資源が見つかったり、新しい技術で既存の物品が新素材などに変化したり、自然エネルギーの相当な部分を活用できるようになったりしている今日、日本はもはや単純に「資源のない国」として括るのは誤りだろう。

 国際分業が当たり前と考えられている状況下で、貿易摩擦を振りかざす国がある今日、貿易摩擦解消のため致し方なく実質的に内製化を放棄してきたことも事実だ。また、大量生産大量消費の中で財務上の利益を上げるためだけに人件費の安いマーケットを探して故郷の衰退を容認してまで内製化を放棄せざるを得なかったのも確かだ。

 

 だが、どこの国家においても内製化は国家の権利のはずだ。法律で内製化を認めないなどはおそらく無いであろう(法律家では無いので確かではありません)。他国とは協力調整関係の強化はあってもリスクマネジメント上内製化の放棄に近い状況はあり得ない。

 企業リスクを教えるときに「取引先の一社傾注は危険」と教える。今回の事象は、海外依存症という、販売、調達いずれもの傾注過剰と、中国への依存過剰という二つのリスクが重なった結果だ。

 大切なことは、海外依存症で出来上がった社会の仕組と内製化を中心とした自立精神で創る社会の仕組みは根本的に違うということを言っておきたい。

 依存症の仕組みの中で、徐々に内製化等と考えるとどうしても、中途半端な今のエネルギーミックスや貿易摩擦への対処方法になっていかざるを得ない。

 

 もう一つ私の学んだ点は、技術立国、職人の国日本が失った工夫の文化。

 紙製のマスクが無いことが、あたかも命をとられてしまうかのような社会全体の異常な感覚はなんなんだろう。手ぬぐいでもタオルでも手近に代替えしかつ洗って再利用出来るものが家庭には沢山あるだろう。日本手ぬぐいなどは柄も豊富で乾きやすく、手製のマスクを作るのは最適だ。古着で作るオシメも同様、今は市販の紙おむつが無ければ子供の排せつ物の処理も出来ないのではないかとすら思ってしまう。

 国民に工夫の能力が充分にあれば、政治家は大きな視点で政務に取り組むことが出来るはずだ。国が何でもやってくれるものと思い込んで上からの指示依存症に国民も陥っているのかもしれない。

 

 内製化と工夫の精神は完全にシンクロする。今まで廃棄していたもの、価値を見出さなかったものを「どうすれば、何に役に立つだろう」という工夫の精神が新商品開発や新産業創造に結びつく。

 物がない時代の知恵、いや知恵というほどでもないちょっとした工夫ですら出来ないようになってしまったのか。

 これからの子供の教育の主眼は、自由な発想の上での工夫する力(=自立できる力)の醸成だろう。

 

 国は何のために、何を守るために存在するのか。他国か、どこかの国が先導して進める国際ルールか。守るべきものの最優先は自国と自国民だ。相手国の内製化権利も充分に尊重し認め、自国の衣食住とエネルギーの内製化に対しての相互理解+国際的な非常時の助け合いを大切にする協調外交。内製化率の向上を目指すことを国家目標とした体制づくりを今はじめようではないか。

 

2020.3