供養

 お盆(8月15日)がちかくなってきた。

 昨日は生田悦子さんが亡くなられた。美しい女優さん、虚血性心不全、71歳で美しいままに逝かれた。

 

 ふと、「供養」という言葉の意味について考えてみようと思った。

 

 一般的には「亡くなった方の冥福を祈る行為」法事やお盆の行事、毎日のお参りや読経等を「供養」と言う。「冥福」とは死後の世界での幸福のこと。つまり「供養」とは亡くなった方のあの世での幸福を願って行為をすることを言うということになる。

 ところが、いろいろな説を学習してみるとそんなに単純ではないもっともっと深い意味があるということだ。

 

 「供養」とは決して亡くなった方にのみフォーカスされたものでは無い、ということが書いてあった。直接に亡くなった方に対して施す行為だけを行っているんではないとのこと。「回向」といって現生で行う善行、一見亡くなった方に直接関係のないようだが、そのこの世で行う様々な善行が、巡り巡って故人の幸福つまり「冥福」を祈っていることにつながる、それを「供養」というんだそうだ。

 よくわからないがとっても有難く感じる深い考えがあるものだ。

 

 だが、人それぞれに供養しようとする対象の故人は違うもの。また何が供養かと考えることも人それぞれ。そうすると自分なりの「供養」についての考えがあってもよいだろう。

 

 私の場合、まず第一に「供養」かなと思うのは、「思うこと」。

 日々何気ない一つの行為や目に入るもの、聞こえる音や、皮膚感覚等、ふと、「ああ、あの人は生きてたらこんなこと言うかもしれないな。」「これを観たら喜んだだろうな。」と思うこと、これは何処にいてもいつでも出来る「供養」ではないだろうか。それはその故人が実在していたことの証を確認する行為だ。

 多分人は思いがあって行動が続くのだろう。つまり思いが墓参りや読経などの形として現れるのだ。

 故人が常に「忘れないで」と言っているような気がする。

     

 もう一つの「供養」は「縁をつなぐこと」。

 縁をつなぐことそれは、「故人がこの世に生を受け、生きていたことの証拠が未来永劫残ること」とも言える。

 そこには自分が存在することへの縁を繋いできてくれた故人へ感謝があり、生きることの使命感があり、自分の存在から始まる夢がある。「思い」という「供養」と一緒になって、先ほどの「回向」が見えてきたような気がする。

 

 会社が消滅する時、原因はいろいろあるが、共通で感じる悲哀は「縁が途切れる」こと。 事業継承などで育まれた技術などが他社で生きるのであればまだ「縁は途切れない」が、器だけではなく中身も完全に消滅した場合は、それまで関わった人々の人生と歴史が故人のそれとなり、しかもその「縁をつなぐ」という「供養」がなされないこととなる。強い言い方をすると、故人の生きてきた証を消すということだ。企業は存続しなければならない。

 

 今回の西日本豪雨では多くの方々が 無くなってしまった。本当に残念だ。小中学校の時『瀬戸内地方は少雨で有名で、そのために塩田が発達するとともに、少雨に備えてため池が発達した。』と習った。教科書を作り変えなくてはならないような災害であったのか。

 この大災害で特に残念なのは、これから多くの新しい「縁」を繋いでいくはずだった方々が、そのバトンタッチもできないままに亡くなってしまったこと。無念でならない。

 

 無くなった方々を「思い」、忘れず、はたせなかった方々の代わりにしっかりと「縁を繋ぎ」現世での善行を心がけること。これぞ本当の「供養」なり。冥福をお祈りいたします。

 

2918.7