「雨は降る降る じんばは濡れる 越すに越されぬ田原坂🎵」
「右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱 馬上ゆたかな美少年🎵」
子供のころからよく聞いて覚えていた民謡であるが、
「山にしかばね河に血流る 肥薩の天地秋さびし🎵」
「草をしとねに夢や何処 明けの御空に日の御旗🎵」
「泣くな我が妻勇めよ男子等 戦地に立つは令なるぞ🎵」
と切ない歌詞が続いていることは知らなかった。
明治6年(1873年)10月征韓論に敗れた西郷隆盛が辞表を提出したに始まった日本最後の内戦西南戦争は、明治10年(1877年)3月3日に始まった田原坂の戦で雌雄を決することとなる。
あまりにも有名な史実であるが、大人の謡う民謡を聴いて「そのような戦があった。」と漠然と理解したつもりになり、民謡に出てくる「美少年」については格好いいものとさえ受け止めていた。「田原坂」についても「たわらざか」「たわるざか」等と読んでいたが、正しくは「たばるざか」であるということも知らなかった。
2021年4月はじめて、熊本山鹿市雨上がりの田原坂を訪れた。資料館に向かって行くと迎えてくれるのは無数の矢弾の後の残る家。
一帯は田原坂の戦いを忍ぶような公園になっている。
公園より望む田原坂は資料館にある昔の写真そのもの、舗装にはなっているが道幅、傾斜、カーブと周囲の風景は当時そのまま。
戦いは3月3日~3月20日の僅か17日であるが、その間に3,000人あまりが戦死するという凄まじさ、戦場では無数の銃弾が飛び交ったことだろう。それを物語るものがある。鉄砲の弾どおしが空中で正面衝突したらどうなるのか? それは互いにつぶれて一つの鉄塊になる。その写真を資料館で見ることが出来る。
公園には西南の駅で戦死した総数14,109名(官軍6,923名、薩軍7,186名)の名前を記した慰霊碑が立っている。官軍は全国から集められ 北海道出身者も8名いる。東北地方出身者が多いのにも驚いた。そして、官軍にも多くの薩摩藩出身者が、中には昨日まで顔を見知った友人もいたのではあるまいか?そして多くのあどけない少年の動員と戦死。13歳の少年も動員されたという。
「何故このような戦争になったのか?」経緯については事細かに研究家が史実を語っているが、どうしても理解ができない。疑問は解けない、「何故こんな戦争をしてしまったのか?」
同じ志を持ちながら人はプロセスに対する意見の違いでこんな悲惨な殺し合いをすることが出来るのか?
この田原坂の戦いが「日赤」の誕生のきっかけとなったと言われ、官軍薩軍の敵味方なく負傷者の救護をしたと史実は語るが、こんな悲惨な殺し合いをしておきながらどうしてこのようなことが出来るのか、また、こんなことが出来るのならなんで其のわきで壮絶な殺し合いをするのか。
田原坂の旅はやりきれない思いが残る旅だった。