戸井線アーチ橋と津軽海峡にかける橋

背景は下北半島大間(戸井汐首岬から望む)
背景は下北半島大間(戸井汐首岬から望む)

 本州に一番近い北海道、それは渡島半島函館から東へ車で小一時間の汐首岬である。

 本州下北半島大間町へは17.5㎞、晴れた日には下北半島が手に取るように見え、国際海峡である津軽海峡を通る大型コンテナ船は、下北半島のシルエットの前をまるで大河を航行しているかのように通過する。

 汐首岬のある戸井町(函館市)には、この最短の海峡に橋を架けようという計画がある。あったといった方が良いか。国際海峡であること、水深が深いこと等技術的問題と経済性の問題で今だ実現の目処はたっていないが、今でも函館市役所戸井支所前には「目指そう早期実現」「本州北海道連絡橋」のスローガンが鮮やかに立つ。

 太古から毎日のように20キロ足らずの対岸を眺めていれば、人は常に海峡を渡ることを考えていたことだろう。それが、長い時をかけて遠泳から丸木舟になり、現在のフェリーになり、青函トンネルを経て、架橋の夢につながるのはごく自然のことだ。

 もしもこの計画が進行していた場合、そして完成していた場合、下北半島大間と戸井の町そして函館にはどのような変化が生まれていたことであろうか?

 おそらく、大間の町は現在のように津軽海峡フェリーの「大函丸」で結ばれている以上に函館と緊密になったことだろう。貨物トラックのルートは間違いなく変わる。何せ物の20分程で海峡を渡れるのだ。下北半島の道路環境も大幅に変わったことだろう。

 鉄道(トンネル)の福島、車(橋)の戸井、船の函館、+-はそれぞれに色々あろうがもの凄い大きな変化が起きたに違いないと夢は膨らむ。

 しかし今では、町内看板のスローガンのような熱気は全く感じられない。

 戸井市役所前の看板を見る限り、そのスローガンを下ろしてはいないのであろうが。

 ところで、この汐首岬の近くでは見事なアーチ橋を見ることもできことに気付いているだろうか。

 国道の左手、山の中腹をトンネルを伴って複数のアーチ橋が続く。これは1934年建設が始まった函館から戸井、椴法華(とどほっけ)、川汲(かっくみ)と渡島半島の東部を回って砂原(さわら)に至る鉄道構想(戸井線)の名残だ。結局は建設途上、一部を短期間物資輸送に利用されたのみで中断、戦後も建設は再開されず残されている。

 戦中の粗悪な資材とその後の放置による風化で今後もその役割を果たすことは無いであろうが、見ておきたい遺産だ。近代土木遺産にもなっており、鉄道ファインならずとも見る価値はある。そして何か観光施設としての利用方法はないものだろうか。

 線路は、海岸沿いにへばり付くように連なる街並みよりもかなり高い位置を通っている。

 津波避難路を登って線路跡を歩いてみたが、現在は草生し、ズボンに草の種がやたらにつく。トンネルだけを残して原野に戻りつつある。その高台の線路跡から観る、津軽海峡と下北は眩しくそして青かった。


 アーチ橋並びにトンネルに保存措置等を施しているような様子はない。放置の状態だが、いずれ、老朽化に伴い撤去の等の問題が出てくるのではないだろうか。なにせアーチ橋が崩れると下は民家だ。確実に被害がでる。将来に必ず大きな費用が予想されるのであれば、どうせなら今のうちからメンテナンスをして、観光資源として再生するのが良いように思うのだがどうだろう。トンネルなどはワインの貯蔵庫等にも利用できそうだ。線路跡は海峡を望むサイクリングロードとし、いくつかのレストランがあっても良い。

 函館市役所戸井支所(旧戸井町役場)を訪ねてみた。「アーチ橋」「本州北海道連絡橋」いずれもパンフ等手に入れられる資料は無かった。支所前にあれほど立派なモニュメントがありながら? 問い合わせにも職員の反応は「・・・・・・?」。日常そこで静かに暮らしている住民にとって、旅人の夢は現実的ではなく、あまり価値のないものであるのかも知れない。