一般社団法人 なまらいいんでない会設立記念 「 函館大門 光再び」

 函館、私が最も多感な時期を過ごした町だ。元町に東日本フェリーの埠頭があった頃、ターミナルのジュークボックスで「港町ブルース」を聞いた時の港景が忘れられない。

そして当時の函館山からの夜景は奇跡だった。
和光、棒二森屋、さいか屋などの百貨店が軒を連ね、松風町は光り輝いていた。「明かりさざめく松風町」。その明かりが大森浜からの海風に揺れてきらめき宝石箱が間近の眼下に広がる。憧れの人を思い、大人になることの不安に怯え、期待に胸ふくらませた青春。町も、人も輝いていた。
 今、駐車場が幅を効かせる大門を見て、あの賑わいを再びと願う。
おそらくこれまで多くの方々が努力して今を作っている過程で、実際には実現しようとした試みが複雑に入り乱れた課題で断念したプランもいくつもあったであろうことは想像に難くないが、私なりの「大門の光再び」を述べてみたい。
 ご笑読いただければ幸いです。

昭和の似合う町

 明治は遠くなりにけり、大正はごく短く、平成はまもなく終わる。10年ひと昔と言うけれど、昭和は64年も続き昭和天皇が崩御なさってから30年、さん昔になった。江戸が終わってからは最も長い元号、それだけにこの64年は世代としては概ね3世代に渡り、戦争を経験し、敗北と打ちひしがれたどん底から、生きるためのもがき、新しいものへの憧れ、成功と喜び、満たされたが故の課題、そしてさまざまな感情と暴力と秩序などが行き交った時代だ。歴史的にみても非常に多くのバリエーションが一時期に凝縮した特殊な時代といえるだろう

 その昭和が過ぎ去って30年だが、考えてみれば、今現在、日本の人口は昭和生まれが圧倒的に多い。31歳から94歳までが昭和生まれなのだ。昭和生まれとは、これからの人生の華やかな時代に向かっている人、バリバリ日本の中心で活躍している人、一線を退き健康で時間もお金のある人々の集団。言わば最も行動的で、これからも日本を引っ張っていき、かつ最も遊べる世代といってよい。そして、40代には40代の昭和の思い出が、50代、60代も夫々特有の昭和の思い出がある。夫々の子供たちもまた、平成生まれでありながら親が聴き、口ずさんでいた、昭和歌謡、昭和のポップス等小さな頃から自然に昭和に触れている。かつて(今でもか)明治村等が観光の名所であるように、今後おそらく40年(30代が70代になるまで)は、昭和が観光の主要テーマになる可能性を持っている。
 最近では、海外からの旅行者も日本各地の昭和に触れているファンも多いと聞く。
 もともと函館は、函館山の麓元町地区が函館開港以来、明治、大正の町として異彩を放った。今も観光はその開港開国当時を懐かしむものが多い。
そして五稜郭本町地区は昭和40年代後半から徐々に発展し、昭和末期から平成初期にかけて中心的な地域になった言わば平成の街だ。今後さらに時代が進めば、平成後のその時代を代表する街は亀田になるのか、北斗になるのか。
 昭和の函館は鉄道と連絡船と北洋船団の町。その中心は松風町であった。
松風町大門地区を大門らしく新しい街づくりを行っていくテーマは昭和が最もふさわしい。
大門の一画を昭和のテーマパークのようにするのにうってつけは祇園界隈だろう。ラーメン屋がある交差点周辺や祇園小路、昭和の匂いがいっぱいだ。それを中心に新しい昭和の町を展開したい。パチンコ屋は勿論銀球を一つづつ入れて弾く立ち打ち台まである。昔懐かしき洒落た喫茶店、ジンフィーズなどまで出す純喫茶、町中に昭和歌謡と昭和ポップスが流れる。どこかにジュークボックスのある店が欲しい。北洋船団の乗組員が集う様な居酒屋に昭和の簡易宿。朝イカ売りの声が響くとそれがすぐに朝食になるなら尚うれしい。霧に包まれた街には汽笛が泣き、降り出した雪をアノラックの襟元に積もらせて暖簾をくぐる。
 私は60代だからこのような昭和のイメージを持つが、40代、50代、70代はそれぞれにまた違う昭和をイメージするだろう。
 そのイメージを忠実に徹底的に夫々の世代の昭和にこだわった、新しいテーマパークしかもそれが普通に生活をし生きている街。
 いずれ「昭和に浸るには函館へ行け!」となれば、「大門の光再び」松風町が蘇る。

渡島・檜山の兄として

 渡島檜山の町村にとって函館は様々な集積地であると同時に、町村を支援してくれる兄だった。(今も兄であるはずだ。)

 

 函館はそれ自体の魅力だけで成り立っていたわけではない。渡島、桧山町村の資源、産物を国鉄と青函航路を通じて道内、日本各地へ運ぶハブとなっていた。町村の生産力が函館に役割を与えたものだ。

 そして、町村の優秀な人材が函館に学びそして、全道、全国へ旅立ち活躍をしていった。結果として町村の人材を見出し育て旅立ちを支えていたのが函館だったのだ。

 

 函館は羨ましいほどの魅力に満ちている。しかしその魅力は少なからず渡島檜山の町村の頑張りによるところもあることを忘れてはならない。

 日本各地そうだが、渡島檜山の町村も人口減少高齢化に悩み、生産力の維持に懸命に努力している。函館も今、同じ様に人口減少高齢化、生産力衰退リスクを抱えている。この状況は何を意味するか、町村の疲弊は函館が健全に生き延びるために絶対に必要な町村からの供給力(物資、資源、人材)が衰退すると言うことである。

  都市というものは地方の供給力により成り立っている。地方からの供給力の衰えはそのまま都市の維持能力の衰退に直結する。渡島檜山の町村の供給力の衰退は、函館の供給力を衰退させ、その様な現象が各地で起きれば、やがて首都東京の衰退につながり、首都は海外からの供給力に頼ることになる。その現象が今なのだ。これは安全保障上の大きな問題だと私は思っている。

 都市は自らの将来を考えるときに、己の存続発展のためには周辺自治体の存続繁栄に力を貸すことが必須なのだ。

 今こそ、函館は再び渡島檜山町村の兄として町村勢向上のための支援を強化するべきだろう。それがやがて「大門の光よ再び」に繋がっていく。

 

 では、どのように支援を強化するのか。今現在も多くの支援策が行われているだろうが、

ここでは、根本的な解決になるかどうかはわからないが、ある視点からのアイデアを一つ披露しよう。

今「大門横丁」に観光客が集う。

一区画を函館市が借り上げ、それを渡島檜山の町村に貸し出し、町村の飛び地を作るのだ。例えとして、「大門江差町」を想作してみよう。

 その区画には、江差町の物産販売店、情報館、江差食堂、居酒屋鴎島などが中心の広場に向かって並ぶ。広場では定期的に、姥神大神宮の祭りや、江差追分の実演、等の地元芸能や、地元名産品の制作実演等などが行われる。そして一角には簡易的に旅行者が宿泊できる江差屋旅館がある。 

 江差町にとっては、函館を訪れる観光客に存在をPRし、希望者には日帰り江差旅行や一泊旅行を提供することもできる。札幌、東京の不特定多数にコストをかけてPRするよりも、わずか70㎞先の函館には観光をするという明確な目的をもって多くの人が集まっているのだ。中には明日一日何をしようかとまだ定まっていない、あるいは柔軟なスケジュールの旅人も少なくないだろう。はるかに効率的なPRが出来る。

 函館市にとっても函館を訪れた観光客が渡島檜山管内に長く滞在することは大きなプラスだ、大半が次の移動のためには函館に戻ることだろう。

 またこのプランは函館在住者に江差をPRする効果も大きい。遠くから来る観光客は大切だが、函館在住者が江差に触れる機会を増やすことはもっと大切だ。ブームや海外の政治状況などに左右される可能性もある外国人観光客のみに頼った街づくりはリスクが高い。出来るだけベースとして域内での安定的なファンを増やすことも大切だ。

 

 江差町民の観点から見れば、パフォーマンスの場が函館大門にできるということは大きい。マンパワーの問題、資金の問題は必ず問題になるだろうが、老若男女多くの人々が自分の特技を持ってプロジェクトに携わることが出来るプランだ。予算の組み換え、観光振興事業の組み立て直しでマンパワーと資金の確保を工夫してほしい。 


 経済は人口である。

 一つは人口の多少であり、もう一つは移動頻度である。

 残念ながら渡島檜山の人口は急激には増えない。その中で渡島檜山全体の経済力を拡大するには域内での人の移動の頻度を高めることである。

 移動はエネルギーであり=経済である。人が存在をしていたとしてもそこにとどまっている限りは経済はダイナミックにはならない。

 函館の人々、函館を訪れる人々の町村への移動の機会、町村住民の函館を訪れる頻度を高める仕掛けの一つが、「大門ふるさと町」構想なのである。

 「大門松前」「大門乙部町」「森 大門」「大門八雲」・・・・・・・・それらが並んで様々にパフォーマンスを展開する姿は壮観だ。

 各ふるさと村には屋上照明を義務付けよう。松風町の夜景の輝きが蘇る。

 

2018.10