三日目 真岡(コルサコフ)突然の通告 言葉失うサハリン6

朝6時30分、MTさん、UNさんは既に皿を持って動き回っている。「今日は何があるかな?」と物色を始めていると間髪を入れずに、「コフィー? ティー?」アリーナだ。昨日と変わらぬ笑顔は嬉しいが、朝食メニューも昨日と同じ。こちらは違った方が良い。豆腐みたいな豆腐と豚バラベーコンをメインに昨日と同じようなメニューを選ぶ。パンは少しだけ変わった。

 

朝食が終わって、MSさんとMGは街を散策してみる。当てもなく歩いていると、少しずつ新しくなっている街並みの中に広大な敷地を囲う塀が現れる。塀は低くところどころ傾いたり壊れたりして、十分に役に立っているとは思えない。カメラを向けていると、年配の女性が何かを言いながら通り過ぎる。この囲いの中は軍の施設だ、ソ連時代からの施設をそのまま使っているようで、外から見る限り各建物はかなり古い。

町の建物全般に言えることだが、ソ連時代につくられたアパートなどは、外装のメンテナンスなどが行き届いておらず美しくない。内部はおそらくリニューアルなどがされていて快適な暮らしぶりなのであろうが、外壁などの美観に対する関心は薄いようだ。

先程の女性は我々に何をいったのだろう。場所と状況を考えてみると、撮影をしないよう忠告してくれたのではないか。

 

MTさんも朝の散歩に出かけている。MTさんの関心は、出勤風景。バス停に集まる人々にカメラを向けている。人物はMTさんの対象ジャンルだ。ホテルの窓からMTさんの様子を観察していたが、おそらくバス停の人々の中のロシア美人にピントを合わせていることだろう。

 

ソ連軍の上陸作戦を目撃していたことだろう。
熊笹峠から望む、ホルムスクと大陸側沖合

9:00 ベスタさんがホテルに到着 真岡(ホルムスク)に向けて出発。

サハリン州郷土博物館と並んで今ツアーの目玉のある真岡、MGの父方祖父の没地でもある。

 

ユジノサハリンスクからホルムスクまでは、峠を超えて西に一時間強走る。道中車窓には、ガソリンスタンド(レギューラーガソリン42ルーブル、約80円と安い。)、送電線(古い送電線は、鉄塔も貧弱で送電能力はかなり低いように見えるが、並行して新しい送電線が建設されている。インフラの改善ぶりがうかがえる。)、農地(中にはソ連が崩壊し放置されたコルホーズが原野に戻って行っているような光景も目に入る。)、ロシア正教協会等が流れる。40分程走ったところでトイレ休憩。

結婚式や、合宿などに使用される民間施設であるので、トイレも新しく綺麗。敷地内にはオーナーの趣味なのか、楽しい施設と美しい花の数々、山羊もいる。鶏はけたたましく鳴き、作り物だが木製の鳥達が羽根を広げ、子供が遊べるブランコもあってのんびりと楽しめる。庭の作業を行っている人々も愛想が良い。

日本語で「水準票?」「一0三二九号」と彫られた石柱が置いてある。どこから運んできたものだろう。

 

トイレ休憩を終えて15分ほどで熊笹峠、第二次世界大戦終戦時樺太の最大の激戦地、ホルムスクの市街を遠望できる分水嶺。ここには日本軍が上陸したソ連軍を迎え撃つために潜ったトーチカがある。

かなり小さな、大部分が地下に埋まったトーチカ、この中でソ連軍の上陸を目撃する心境やいかに。トーチカは白く塗られているが、草むらの陰でひっそりと、言われてみなければ気付かない。近くにはソ連の巨大な戦勝モニュメント。頂上には大砲が載っており。砲身は日本をむいていると言われている。勝ち負けの差がはっきり出ている。高地で風が強いせいもあり、寒い。

 

熊笹峠を越えると一気に真岡の町へ下る。対向するトラックの喘ぎが聞こえるようなかなりの急坂であるが、坂部分の道路はよく整備されている。 

真岡展望台の後ろにそびえる展望アパート。
真岡展望台の後ろにそびえる展望アパート。

真岡(ホルムスク)着。海浜公園は古い港。港湾機能の本体は南側に移っており、公園は憩いの場だ。旧港の防波堤は日本領時代のものと思われるが、大きく崩れている。波の力だけとは考えられない壊れ方だ。終戦時の砲撃などの名残に見える。

公園内には1870年のロシア軍駐屯、1945年のソ連軍上陸を記念したと思われるモニュメント。石造りで立派に見えるが、石の剥がれや隙間が目立つ。もう少ししっかりと建てられないものか。

 

少し休憩、散策の後、展望台へ向かう。ホルムスクは狭い海岸線に広がる街からすぐに山となるため、坂が多い。バスは幾重かにカーブをきって坂を上っていき、古いアパートの前の狭い空き地に停車した。

「着きました。」「え?」「展望台です。」「展望台?」、なんとも言えない。高台の僅かな空き地が展望台だという。降りてみるとなるほどホルムスク港の中心部が見下ろせる。港湾の荷揚げクレーンやドッグ、大陸からのフェリーの船着き場等が見える。サハリンの鉄道は日本領時代のもので狭軌である。一方ロシアの大陸側は広軌であるので、フェリーで運ばれた貨車はここで狭軌の台車積み替える。見晴らしや景色よりも、展望台背後のアパートから住人が我々を展望しているのが面白い。年中展望台に住んでいるとは羨ましい。

 

続いては真岡神社(跡)。樺太神社同様、真岡神社も社は跡形もない。本殿跡には船舶会社のビル。だが参道の階段部分、境内であった庭園部分には樺太神社以上に歴史が残っている。参道石段、鳥居土台、『階段敷石寄進(石田さん 会田さん 空井さん 中巴さん)』、手水鉢、馬頭観音土台、読み取れないが当時と関連があるであろう壊れた石碑等が想像力をサポートしてくれる。ロシア人は無関心に境内を通り抜けるが、ロシア国籍の猫だけは境内を楽しんでいる。 

旧王子製紙真岡工場。サハリンで最も有名な観光遺跡のひとつ、今回のツアーのメインイベントとも言えよう。

王子製紙真岡工場は、実業家大川平三郎氏が創業した樺太工業の真岡工場として1919年操業開始、1933年王子製紙に結果として実質的に吸収合併された。戦後ソ連に撤収されホルムスクパルプ製紙工場として稼働したが、ソ連崩壊前後の混乱とメンテナンスの不足などで低迷、1992年の火災が致命傷となり生産を中止した。その後放置され、風雨にさらされた無残な姿がここにある。

窓という窓は壊れ、垣間見られる内部にはがれきが転がる。敷地は草生し、生きている感が無いが、建築技術は素晴らしいものがあったのであろう、巨大な煙突や、工場の躯体はしっかりと立っている。それだけに哀れを誘う。どれだけ多くの日本人の生活がそこにあったのだろうか。ソ連時代は2500人が働いていたという。

立地は真岡港に近く、鉄道インフラも整っている一等地だ。極東投資の遅れのおかげと言っては語弊があるが、今このように観光遺跡としての価値を持っている。しかし極東への積極投資を続けるプーチン大統領、貴重な立地にありながら生産性の全くない施設を放っておくはずはない。いずれ再開発され、記憶の中に埋もれることだろう。

サハリン6 それぞれに感じるものがあるのだろう。無言で廃墟を写す。

 

次に向かったのは、かつて真岡に在住した有志の皆さんが1995年八月に建立した忠魂碑。「ここに眠る諸霊を鎮め、平和と友好を祈念し、真岡町関係有志が望郷の想いをこめてこの碑を建立した。」。寄付者は、王子製紙、日本製紙、本州製紙、拓銀、福島石油、丸茶等の企業関係者、東京、札幌、苫小牧の真岡会、真岡中学校東京同窓会、真女同窓会五月会、真岡一校、二校、四校の皆さんなど多数に及ぶ。祖父の墓所もわからないMGは、この忠魂碑を墓標の代わりに手を合わせる。まだ多くの人がはるか日本から真岡に思いを寄せていることだろう。

ホルムスクでの昼食。旅行社がリザーブした市の中心街にあるカフェ。熊笹峠、展望台、真岡神社、王子製紙真岡工場、忠魂碑、半日でかなり密度の濃い時間を過ごし、少し疲れたところだ。「今回のツアーの重要要素は完了。午後はお土産を買って帰り支度しなくては。」等と心の中で思いながら、料理を待つ。

すると、少し姿が見えなかったベスタさんが戻って来た。

「MGさん 残念なお知らせがあります。」

「?」

「皆さん明日は帰ることができなくなりました。」

「え!(そういえば船が小さいので天候の都合で1日遅れることもあると聞いていたな。仕方が無いか。)、じゃあ明後日になるんですね。」

「いいえ、予定より三日後の14日になります。」

「えーーーーーーーーーーーーーっ!」

サハリン6には会社社長や専務他現役バリバリのビジネスマンが4人いる。一日ならばなんとかなるが、三日後とは穏やかではない。

「それは困る。何とかならないか。」

「12日まで船が稚内を出港できないということなので、無理です。」

「では、飛行機に切り替えて帰ろう。」

「このビザなしツアーは、稚内から船で出て、船で帰ることが条件なので船でしか帰れないのです。」

「キャンセルしてもいいから飛行機にしよう。」

「新たにビザ取得の手続きなどが必要で、とても複雑で時間がかかり、早く帰ることは出来ません。」

「・・・・・・・・・・・・・」

サハリン6 それぞれに色々な思いや状況が頭を巡っているので、しばし無言。

「どうしようもないものは仕方が無い。」誰ともなく言いだし、サハリン6腹をくくった。

とほぼ同時に、料理が運ばれてくる。話を聞く前であればどのような料理か興味もあったであろうが、急激に食欲も落ちた。おまけに、サラダ+スープ+ピロシキ+マッシュポテトとメインディッシュのパターンだ。完食者の数がぐっと減った。

思い返せば、稚内港出発以来、海の洗礼を除いてはホテル環境もよく、雨にも合わずスケジュール通りに旅は順調、朝のアリーナの微笑と、大きな問題なく過ぎてきた。あらかじめ多少のリスクも織り込み済みであったが、今回の突然の通告の衝撃は大きい。ベスタさんも言いにくかっただろが、冷静に旅行社からの通知を伝える。その姿は仕事を全うする意志の強さを感じるが、打ちひしがれた我々には多少冷たくも映った。

しかしながら流石に様々な経験を積んできたサハリン6の面々、色々な思いや感情もあるであろうが、顔や口に出すことは無い。その大きな心に言いだしっぺのMGは感謝する。

 

食事を終え、店の外に出ると眩しい。お店の中が暗かったこともあったのだろうが、突然の通告を境に見える景色も違っている。

店前のメインストリートを渡って左へ少し歩くと、銀行の入った9階建てのビルが見えて来る。ここが真岡郵便局のあった場所。郵便局の影も形も名残も無い。ここと言われてもどこなのかわからない程だ。

映画「ひめゆりの塔」で知られる 真岡郵便局事件。終戦時、電話交換手であった9人の乙女が、ソ連軍の迫りくる中最後まで職場を守り、「みなさんこれで最後です。さようなら。さようなら。」の言葉を残して青酸カリを服毒自殺した。敵前逃亡などをする軍の幹部などもいる中で、その大人からの教えを守り自ら命を断った悲しい実話。稚内の稚内公園には、真岡に向かって慰霊碑がある。

 

ホルムスク終了。熊笹峠を越えてユジノサハリンスクへ帰る。肉体的な疲労と精神的な激疲労で社内の会話は弾まない。静かな帰路です。

ユジノサハリンスクでは稚内市サハリン事務所へ寄ってみることとした。所長の中川さんは、初日にコルサコフの港へ迎えに出てくれた。今晩の夕食は中川さんにチョイスしていただいた。

稚内市事務所は、ユジノサハリンスク駅からレーニン広場を市役所方向、レーニン通りを超えて左にある はずだが中々見当たらない。カムニスチーチェスキー大通りというやたら長い名前の大通りから少し裏に入ったビルに看板があった。

女性の守衛が目を光らせている少し薄暗いエントランスを右に折れ廊下を行くと、事務所がある。中川さんとロシア人の女性職員が一名。あら、稚内港からペンギンに同乗した方だ。北海道新聞社のサハリン駐在員で若い則定(のりさだ)さんを紹介していただいた方だ。MGは友人の北海道新聞社広瀬社長から、「則定さんが頑張っている。ありがとうと伝えてくれ。」と伝言を預かっていた。思わぬ形で則定さんと会うことが出来、目的を達成できたので、恩人の女性である。

中川さんはユニークな方で話が面白い。サハリンを中心とした世界地図、めったに見ない地図を紹介していただき、ロシア人の物の味方、関心の持ち方を地理学的な観点から解説してくれる。確かに日本を中心としない色々な角度から世界を見ることは重要だ。

そして、日本茶が美味しい。考えてみれば、稚内港を出てからは、ペンギンの中で一人に一本配布されたペットボトル以外に日本の緑茶は飲んでいなかった。

夕食での再会を楽しみにして事務所を出る。

 

突然の通告でサハリン滞在が三日伸びたので、ルーブルが不足してきた。ベスタさんに両替を紹介してもらう。ユジノサハリンスク駅前のレーニン通りでバスを停め降りて歩く。どこの銀行へ連れて行ってくれるのか、はたまたホテルか。少し歩いて、道端に停止しているバンのウィンドウをノックする。なんとそれが両替所。一人の男が、バックからルーブルの束を取り出し円と交換する。これは・・・ 正規の両替なのだろうか。換金率は表向きのレートより良い。円は人気があるのだろう。正規であったとしても、ちょっと後ろめたいような、コソコソした気持ちになったが、懐は豊か。さあ、伸びた三日は楽しもう。

 

ホテルについてベスタさんとはここでお別れ、14日の出国の際は旅行社の別のスタッフが来るという。お別れの挨拶をしながら、明日の時間をどうしようか嘆いた。するとベスタさん「明日は午後にガイドの仕事が入ってますが、午前中興味があるようでしたら、宮沢賢治が訪れた白鳥湖のあるドリンスク(落合)へお連れすることが出来ます。どうしますか?」とのこと、事前に決まったルート以外は動けないものと思っていたが、集団で行動すること、旅行社がセットするルートであれば大丈夫とのこと。どうせなら楽しみましょう。明日の出発時間を確認して、通いなれたスーパーへ向かう。明らかに「また来たな。」という感じのガードマン。われわれの行動に慣れたのか、表情は少し柔らかくなってきた。

レストラン フタローク。サハリンを代表するウクライナ料理店。サハリン稚内事務所の中川さんと女性職員がホテルに迎えに来てくれて、タクシーで向かった。

ロシアのドライバーはものすごくマナーがよい。飛ばすのは飛ばすのだが、横断しようとしている歩行者を見ると、皆確実に停車する。日本のドライバーも見習うべきだ。この点だけで見れば世界一かもしれない。

 

フタロークは高級感のあるレストラン。曜日によってはバンド演奏などもあるということだが、今はほぼ貸し切り状態だ。

ウクライナ料理はロシア料理とはちょっと違う。また、これまでのコース料理ではなく、中川さんがアラカルトにしてくれたので、コラーゲンたっぷりの煮凝りホロジェッツ、ロシア餃子のペリメニ等等、新顔に会う。我々にはロシア料理との味覚と基本的に大きな違いが判らないが、定番ロシア料理の連続に食傷気味のサハリン6も箸(フォーク)が進む。中川さんの若い時の武勇談やサハリンと日本の関係の様々な話題を楽しみながら、ちょっと高めのヴォッカを次々と開ける。もちろんコーラも。女性職員はイーナさん、酒が強い! 明るくぐいぐい楽しい酒だ。聞けば明日娘さんアンジェリーナの入学の為モスクワへ行くという。そんな大きな子供さんがいるとは思えないくらいに若く活発だ。

こんなお母さんならイーナ。

楽しい時間は過ぎてゆく。これが本当の最終日であったはずなのだ。

 

帰路、道からホテルへの入り口で載っているタクシーと男の歩行者が接触した。曲がり鼻、道端に立っていた男が歩きだし接触したのだが、タクシーはそのままホテルへ我々を送り、その後で運転手が男の方に向かってゆく。警察や救急車を呼ぶでもなく何やら話し合っているようだが結末はわからない。サイレンも聞かれなかった。大したケガも無く示談をしたのか、あるいは、有名な当たり屋であったのか。

 

中川さんと、イーナさんにお礼を言って、ホテルの部屋へ戻る。

今夜は皆さん、夜の宴会が弾まない。早々と各自自室へ戻って就寝。3日目、完!